遭遇
遭遇 飛雄馬は人目をはばかるように、明け方、まだ道行く人も疎らな時間帯を選んで、かつて自身が居住していたクラウンマンションを訪れた。
解約の電話を不動産屋に入れ、荷物の片付けを終えたら鍵をそちらに返しに来ると伝えたのが昨日のこと。
搬送された病院を抜け出して、もう1週間にはなるだろうか。痛めた左腕は日常生活を送れるくらいには回復した。
大リーグボール3号と名付けた魔球は1球、1球それを放る度に飛雄馬の生命線とも言える、左腕の命を確実に削っていった。ふと覚えた左腕への違和感が確実に痛みとなったのは何球目を投げたときであったか。
飛雄馬はエレベーターに乗り込むと、自室のあった階のボタンを押し、ゆっくりと上昇する箱の揺れに身を任せる。
もう東京に戻ってくることはないだろう。
美奈さんのいた宮崎にでも身を寄せ、彼女の墓守をしながらひっそりと暮らそう、とこの1週間の間に飛雄馬は考えていた。
目的の階へと到着したために飛雄馬はエレベーターから降りて、廊下を歩む。
そうして、ポケットから鍵を取り出して鍵穴にそれを差し込み、捻るとドアノブを手にそれを回した。
ところが、ガツン、と扉は飛雄馬を拒絶するかのように乾いた金属音を立てる。
出ていくときに鍵を掛け忘れたか、不用心だったなと飛雄馬は苦笑しつつ再び鍵を差し込むとそれを捻って、施錠を解いてから扉を開く。
空き巣にやられていないといいが、と思った飛雄馬だったが部屋の中は荒らされた様子もなく、それどころか玄関先には見慣れぬ靴が──いや、この靴は。
「……………!」
思わず後退った飛雄馬の背中が扉にぶつかり、その音が部屋中に響き渡る。
「明子さん?」
部屋の奥にいたらしき彼が物音に気付いたか顔を出し、飛雄馬はその男の名を口にした。
「伴………」
「ほ、星?お前、本当に星か?」
「………」
飛雄馬が名を呼んだ男──伴宙太は飛雄馬の顔を目の当たりにするなりその大きなどんぐり眼を更に見開き、こちらに歩みよってくる。
後ろ手で飛雄馬はドアノブを探って、それを掴むなりぐっと一息に回してから扉を開けようとしたが、それよりも早く伴の腕が彼の体を抱き締めた。
「星。本当に星じゃな。ユーレイなどではないんじゃな!」
「………………」
伴の肩に飛雄馬は顔を埋め、目を細める。 ああ、どうしてここにいたのがよりによって伴なのだろう、と。
ねえちゃんや、花形であったならば後ろも振り返らずここを開け放って駆け出して行けたのに。どれだけこの腕を欲したか、この体温を感じたかったか。
あの日、大リーグボール2号の終焉と共におれの元を去った彼。
「会いたかった。星……病院からっ、抜け出したと聞いたときには………おれは………くぅ、う……」
振り絞るような伴の慟哭を聞きながら飛雄馬は目を閉じる。違う、おれは甘えてはいけない。もう、この男はおれの捕手を勤めてくれた伴宙太ではない。
中日の背番号8を背負った強力な打者なのだ。ベーブ・ルースに成り得ると言われた伴にはまだこれからの人生があって、おれと言う人間一人にいつまでも縛られていてはいけないんだ。
「伴!」
飛雄馬は伴の腕の力が緩んだのを見計らい、彼の体を突き飛ばす。
「…………星」
動揺し、伴は飛雄馬から少し距離を取った。
「伴、きみは、ここに何をしに来た。勝手に、人の留守に部屋に入るなんて」
俯いたまま、飛雄馬は震える声を上げる。
「それは、謝る。星、あっ、明子さんと話をしたんじゃ。この部屋は星がいつ戻ってきても良いようにとずっと借りておくことにしよう、と。じゃから、おれは」
「ふ、ふ………そうか。それなら話は早い。おれは部屋を片付けに来たんだ。明日には不動産屋と業者が来て、部屋中の荷物を運び出して処分してくれる手筈になっている」
「な、っ………」
そこで飛雄馬は涙に濡れた顔を上げ、伴を仰ぐ。
「まさか、伴に会うとはな。ふふ」
「ほ、星……」
伴はおそるおそる腕を挙げ、飛雄馬に触れようとしたがすんでのところで思い留まる。
「もう、会うことはないだろうと思っていた。幸か、不幸かまた会うとは」
「………幸に決まっとるわい。どれだけおれや、明子さんや花形、左門やその妹や弟たち、それだけじゃない。ジャイアンツの皆さんが総出で星のことを探したか」
飛雄馬は再び、後ろ手で音を立てぬようドアノブを回す。
「…………」
そうして開いた扉の隙間から出て行こうとする飛雄馬の腕を伴は取るや否や、自分の胸へと引き寄せ、抱き留めた。
「星、おれは野球を辞めるつもりじゃあ。星のいない球界など用はない。二人でずっと一緒に暮らそう。なあ、星!」
それができたらどんなに幸せだろう。
どんなに満ち足りた人生を送ることができるだろう。けれども、それはおれの幸福で、伴はきっと野球のできなくなったおれを哀れんでそう言ってくれているに違いないのだ。
その腕を買われ中日に引き抜かれていった彼が、このまま終わっていい筈がない。
しかして、おれは今、この腕を振り解くことができない。
あの日以来、心の奥に封じ込めた自分の弱さや甘さがまた顔を出してしまう。もうおれはこれからたった一人で生きていかなければならないと言うのに。
「伴。それはできない……それは、きみのためにはならない」
「この期に及んでお前はまだ人のことを……」
「きみと、伴と共に過ごした時間は本当に楽しかったし、幸せだった。練習の辛さも忘れられたし、おれが一軍で活躍できたのも何もかもきみがいてくれたお陰だ」
「それは、お互い様じゃあ!」
伴は抱いていた飛雄馬から腕を離し、今度は彼のそれぞれの肩を掴むと口付けをするかのように目を閉じ顔を傾ける。
「伴……これで、終わりにしよう。それで、いいだろう」
「嫌じゃい!離れるのは……もう、星がいない世界の、何が楽しいと言うんじゃい」
飛雄馬は涙に濡れた伴の口付けを受け、その暖かさに身震いした。
何度も、何度も互いに涙の味を乗せた唇を重ねて、小さくそれを啄んで、飛雄馬の頬に流れる涙を伴の指が拭う。
体が火照って、体温が上がっても、それからお互い先に進むことはせず、ただただ、一心不乱に唇を求め合った。
いつの間にか舌が絡んで、唾液が混ざり合って、吐息が熱を孕む。
頭の芯がじんわりと痺れ、飛雄馬は小さく声を上げた。
「星、ええか。先を、続けても」
「っ………いやだ、ここから先は……」
「星………」
蕩けて、脱力する飛雄馬の体を伴は強く抱いて、ぶるぶるとその身を震わせる。
伴の口からは嗚咽が上がって、飛雄馬の鼻の奥がまた熱くなった。
いっそ、このまま身を委ねてしまって、何もかも分からないようにされてしまった方が楽なのかもしれない。
伴の優しい腕に抱かれて、熱を与えられて、安らかに眠ってしまえたらどんなに幸せなことだろう。
「伴、わすれない。きみのことは、どこに行っても」
「……あっ、たりまえじゃい。忘れたくても忘れられるか………」
「…………」
飛雄馬は伴の広い背中に腕を回し、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、さよなら、と彼を冷たく突き放す。
伴もそれ以上、腕の力を強めるでもなく、飛雄馬を引き留めるでもなく、ただ濡れた瞳を彼へと向けた。
伴はさよなら、とも、行くな、ともそれきり言わなかった。それが伴の優しさで、精いっぱいの強がりなのだろう。
飛雄馬は扉を開いて、廊下へと出る。
星、と何やら伴が名を呼んだ気がしたが、飛雄馬は聞き返すでもなく廊下を駆けた。
伴には一番会いたくなかった。決心が揺らいでしまうような気がして。
こんなに自分が弱い人間だったのだと自覚するのが怖くて。
体に残るあの腕の感触が、唇の熱さが胸を掻き乱す。
飛雄馬は頭を冷やすかのように階段を駆け下りながら、後から後から溢れ出る涙を拭った。地上に着いた頃には日が昇りかけ、道行く通行人の数も増えてきている。
泣いた瞳に日光が眩しくて、飛雄馬はスラックスの尻ポケットに入れていたサングラスを掛けると、人目を避けるように歩き出す。
これからたった一人で生きていくために、ただ真っ直ぐ前を向いて歩んでいくために、飛雄馬は強く奥歯を噛み締めた。