時雨
時雨 降られたか、と飛雄馬はシャッターの下りた商店の軒下で鈍色をした厚い雲を仰いだ。
ラジオの天気予報で午後からは雨と言っていたから、朝練が終わってすぐ宿舎を出て用事を済ませばじゅうぶん間に合うだろうと思っていたのに、と心中で嫌味など吐きつつ濡れた髪から額へと滴り落ちてくる雨の雫を掌で拭う。
雨足は弱まるどころか段々と強くなってきており、国道に出てタクシーでも捕まえるか、と軒下から出るべく足を踏み出した飛雄馬の目の前を1台の外車が通り過ぎた。
今の車はどこかで──飛雄馬が目線を送りつつ考え、答えを導き出すよりも、数メートル先で急ブレーキをかけるようにして止まった車から傘を手に下りてくる人物が顔を見せる方が早かった。
「飛雄馬くんじゃあないか、こんなところで会うとはね」
「は、ながた、さん」
黒い紳士用の傘を手に花形と呼ばれた男が口角をにやりと吊り上げる。
ふたりの間には沈黙が流れ、激しく地面に降り注ぐ雨の音だけが虚しく響き渡った。
ふい、と飛雄馬が目を逸らし、軒下から出ていこうと身を翻したその腕を、花形はぎゅっと握る。
「この雨の中、どこへ行くつもりなのかね」
「宿舎に、帰らなければ」
掴まれた腕から微かに伝わる花形の体温に飛雄馬は目を細める。
そんなに体が冷えるほど、ここに立っていたつもりはないのだが。
肩が冷えてはまずい。明日の試合に差し支える、と飛雄馬が眉間に皺を寄せたとき、花形は持っていた傘を飛雄馬に差し出し、車に乗りたまえ、と一言、鋭く言い放つ。
ほとんど命令口調のそれで、飛雄馬はたじろぐ。
そうして、瞬きひとつせず、自分を見据える花形の双眸から飛雄馬は視線を外した。
「傘、だけ、お借りできたら十分だ」
「そうしたいのは山々だが、握った腕があまりにも冷たい。体を暖めて帰りたまえ。明日の試合はきみも登板するのだろう。肩を悪くして試合に臨めば皆に迷惑がかかる」
「…………!」
そうだ、と飛雄馬は花形の言葉に奥歯を噛み締める。
おれひとりの失態がチーム皆の足を引っ張り、何よりおれを信じ、自分の背番号を与えてくれた長島さんの顔に泥を塗ることになる。
飛雄馬は差し出された傘を受け取ったものの、この1本しか花形が所持していなかったことに気付くと、雨に濡れることも厭わず、乗り付けてきた外車の運転席に乗り込もうとする彼の名を呼んだ。
「花形さん、傘……」
バシャ、バシャと地面に降り注ぐ雨を蹴り上げつつ、飛雄馬は花形の外車のそばへと走り寄る。
「ぼくのことは気にしなくていい。ほら、早く」
「っ………」
ドアを開け、車内へ足を踏み入れた飛雄馬に対し、花形はそんな言葉を投げかけると、濡れたせいで乱れた前髪を手で掻き上げた。
飛雄馬が後部座席に乗り込んだ後、ドアが閉められたのを見計らってから花形は車を走らせる。
「フフ、まさかあんなところで会うとは、宿命のライバルの業とでも言うべきか。ちょうど、取引先の社長宅があの辺りでね」
「……通りがかってくれて助かった。あのままあそこにいたら風邪でもひいていたかもしれない」
「…………」
「花形さん?」
突然に黙った花形を訝しみ、名を呼んだ飛雄馬に、「近くにぼくの会社の系列のホテルがある。そこでシャワーでも浴びて体を暖めようじゃないか」と、彼は言い、フロントガラスの水滴を弾くワイパーの速度を速めた。
雨足は強まる一方で、もしかすると明日まで降り続くかもしれない、そうすると、明日の試合は、と飛雄馬は窓を叩く雨音を聞きつつ、嫌なことを考える。
それから、10分もせぬうちに花形は車をとあるホテルのエントランスに着け、それを出迎えたホテルマンは彼の姿にぎょっと目を丸くした。
ホテルの経営者である会長の息子の登場にも驚いたが、その格好がずぶ濡れと言うばかりではなく、かの長島監督から背番号3を受け継いだ巨人の星を伴っていたからである。
花形は半ば強引に車を駐車場まで運転してほしいことと鍵を預かっていてほしい旨をホテルマンに伝えると、飛雄馬を連れホテルの中へと入り、これまた驚きに目を見開き驚いた受付に事情を話し、鍵を受け取った。
「…………いいんですか、本当に」
「いい、とは?ぼくがそうしたいと言ったからそうしたまでだ。きみが気を遣う必要はまったくない」
エレベーターに乗り、花形は閉のボタンで扉を閉めると、目当ての階のボタンを押す。
微かなモーター音が響き、エレベーターはゆっくりと指定された階へとふたりを運ぶ。
「……朝、元気に家を出た花形さんが帰宅時に風邪をひいていたとなってはねえちゃんも心配するだろう」
「なに、そんなに濡れてはいないさ」
エレベーターの扉が開き、ふたりは降りてすぐのところにあった部屋に鍵を使い足を踏み入れた。
その広さに今度は飛雄馬がぎょっと目を見開く。
ちょっと体を暖める、にしては不釣り合いなさすが花形コンツェルンの経営するホテルと言うべきか、家族連れで利用するのが相応だろうという広々とした室内に飛雄馬は目を何度も瞬かせた。
「先に、使いたまえ。ぼくは後でいい」
ネクタイを緩めつつ花形は飛雄馬を風呂に入るよう促す。
「でも、花形さんの方が」
「飛雄馬くん、何度も言わせないでくれ。きみが気を遣う必要はない」
飛雄馬の言葉をピシャリと跳ね除け、花形はジャケットを脱ぐとハンガーへとかけた。
「…………」
飛雄馬はそれきり何も言えなくなってしまい、続いてベストのボタンを外している花形に小さく会釈すると浴室に続く戸を開ける。
そうして、脱衣スペースにて1枚1枚衣服を脱ぎ捨て、浴室の戸を開けるとシャワーの温度の調整をしてからカランを回し、頭から適温の湯をかぶった。
冷えきった肌を熱い湯が温め、癒やしていく。
まだ、雨は降り続いているだろうか。
ああ、こんなことを考えている場合ではない。
おれよりも花形さんの方が雨に晒され、体が冷え切っているはずだ、早めに彼と代わらなければと飛雄馬は急ぎ洗髪等を済ませ、湯を止めると浴室を後にする。
バスタオルで濡れた体を拭って、飛雄馬は一瞬、どちらを身に着けるか迷ったが用意されていたバスローブを纏って、お先しましたと居室に戻った。
「体は温まったかね」
「おかげさまで……」
それは良かった、と花形は薄く笑みを浮かべてから腰を下ろしていた椅子から立ち上がると、そのまま浴室へと入っていった。
飛雄馬はベッドの端に腰掛け、濡れた髪を綺麗に手入れをされた清潔なタオルで拭う。
宿舎で使っている年季の入った固いそれとは違う、柔らかなタオルの感触を飛雄馬はしばし噛み締めた。
それにしても、花形さんはとんでもないところにおれを連れてきたものだな、と飛雄馬は改めて部屋の中を見回す。
腰を下ろしたベッドのマットレスにしたって、例えが巨人軍宿舎のそれ、というのもおかしな話だが、触れただけで高級なものであろうということが伺え、貧乏育ちのおれなんかが眠ったら寝違えでも起こしてしまいそうだと飛雄馬は思う。
ねえちゃんも、玉の輿で悠々自適な生活を送っているんだろうと思っていたが、それなりに色々と苦労もあるのだろうなと飛雄馬はベッドの布団を包む糊の利いたシーツを掌で撫でた。
と、浴室から飛雄馬と同じようにタオル地のバスローブを羽織った花形が顔を出し、ニッ、と微笑んでみせた。
「何か、飲むかね。冷蔵庫の中、勝手に漁ってくれても構わんが」
「……いりません」
「……なに、遠慮する必要はない。きみとぼくの仲じゃないか」
花形はタオルで髪を拭いつつ、部屋に備え付けてある小型の冷蔵庫を開けると、中から冷えたオレンジジュースの瓶を取り出した。
もちろんこれは飛雄馬がシャワーを浴びている際、花形がルームサービスを頼み、持って来させたものだ。花形は栓抜きで蓋を外してやると、飛雄馬に差し出す。
それを受け取りつつ、飛雄馬はその「きみとぼくの仲」と言うのが最大の曲者なんじゃないか、と、しばらく冷えた瓶を手に口を噤んでいた。
確かに、戸籍の上では義理の兄弟かも知れない。
けれども、今までろくに会話らしい会話をしたこともないのに、これからは兄と呼び慕ってくれたまえなどと言われても対応に困ってしまう、というのが本音だった。
花形さんはそう言った切り替えが上手いのかも知れんが、おれはてんでだめだ、と、飛雄馬は瓶を傾け、甘いオレンジジュースで喉を潤す。
ねえちゃんもおれと花形さんの関係を心配してか食事に何度か招いてくれたが、5年と言う歳月は人を変えるには十分な年月らしく、どうも距離感が掴めず、マイホームでの明るい家族団欒などと言う和やかなムードがおれには不釣り合いな気がして、申し訳ないとは思いつつも飛雄馬はその誘いを断っていた。
カチャッ、と花形が瓶の蓋を栓抜きで開けた音で飛雄馬は我に返り、再び瓶に口を付ける。
花形はコーラの栓を抜いたらしく、黒い炭酸水を一息に煽った。
またしてもここに来て沈黙が流れる。 飛雄馬は残りのジュースを一気に飲み干すと、宿舎からここまで着用していた私服に着替えるべく腰を上げた。
「ここのところ、巨人は快調のようだね。観ていて心地良い」
「……ええ、おかげさまで。それも今日、花形さんのおかげでまた、救われました」
立ち上がった飛雄馬のそばに花形は歩み寄って、じっとその瞳に目の前の彼の姿を宿す。
「…………」
飛雄馬はこの瞳が堪らなく苦手であった。
いつも自分を打席から真っ直ぐに見据えてくるふたつの眼。
絶対に打たせないと投げた球をミートする瞬間、彼は待ってましたとばかりににやりと口角を上げるのだ。
マウンドから打席に球が届く時間など、たった数秒、それだと言うのに、振りかぶるおれの腕や体のしなりを花形さんは瞬きもせずに捉え、バットを振る彼の腕の動きまでが鮮明に、スローモーションのようにおれの目には映る。
その一瞬が堪らなく怖い。どうか、微笑まないでくれ、とおれは普段信じもしていない神に願う。
飛雄馬は奥歯を噛みつつ、花形から視線を外し、明日も登板、しますからと話を逸らす。
「まあ、そう急ぐこともあるまい。外出許可は貰ってきているんだろう。外はまだ雨だ。せっかく温めた体がまた冷えてしまう」
そう、言われても、と唇を引き結んだまま、何と理由を付けてこの場を逃れようかと考えていた飛雄馬の腰を花形はふいに抱き寄せ、その顔を覗き込んできた。
「…………!」
ギクッ、と飛雄馬は花形の唇が触れる瞬間に顔を背け、あまりのことに反射的に目を閉じる。
「フフ……」
嘲るような笑みを溢しつつ、花形は顔を背けた飛雄馬を追い、彼の頬へ口付けた。
「う、うっ……」
声を上げ、更に花形から逃れようと身を捩った飛雄馬だったが、たった今まで腰掛けていたベッドの端に足をぶつけ、そのままどどっと花形と共に白い布団の上に倒れ込む。
マットレスのスプリングが派手に軋んで、ベッドに乗り上げた飛雄馬の体を揺らす。
花形もまた、飛雄馬と共にベッドに乗り上げ、彼の体の上に不可抗力ながら覆いかぶさる形を取っていた。
「花形さん、降りて、くれないか。なんのつもりで、こんな、こと」
「…………」
花形は答えないまま、飛雄馬が着ているバスローブを留めている紐を解いていく。
「な、っ!馬鹿な、なにを、あなたは」
かあっ、と頬を染め、声を荒げた飛雄馬の唇に花形は自身の口を寄せ、そっと口付けを与えると、紐を解き、開けさせたローブから覗く白い肌へと指を這わせる。
あっ!と小さく叫んだ飛雄馬だったが、すぐに口元に手を遣り声を殺した。
花形は飛雄馬の反応を楽しむかのように現れた肌を指でそっと撫で、その都度小さく体を震わせる彼の仕草ににやりと笑む。
と、花形は飛雄馬の戦慄く首筋に顔を埋め、その薄い肌へと唇の跡を残していく。
「う、っ……ん」
肌に乗るバスローブを跳ねやり、花形は飛雄馬の腿を優しく指先で撫でた。
「いいのかね、飛雄馬くんは」
「え……?」
突然に投げかけられた言葉に飛雄馬は固く閉じていた目を開け、花形を仰ぐ。
「きみが嫌だと言うなら、これ以上無理強いはしないつもりだ」
「花形さんが、そう、したいのなら、すればいい」
おれさえ我慢すれば、済むことだから、と言う言葉を飛雄馬は飲み込んで、再び口元を手で覆う。
「…………」
花形は無言のまま体を起こすと、ベッドから離れ、飲みかけの瓶の中身を口に含む。
「花形、さん?」
「飛雄馬くんの反応が面白くてつい、調子に乗ってしまった。すまない」
ローブの乱れを直しつつ、飛雄馬は体を起こした。 部屋の隅にある椅子に腰掛け直しつつ、花形は瓶の中身を飲み干す。
「…………」
「このまま降りて、フロントでタクシーを呼ぶといい。支払いはぼくにツケておきたまえ」
淡々と花形は言葉を紡ぎ、飛雄馬に身支度をするよう声をかけた。
飛雄馬はそれで我に返り、脱衣スペースに置いたままになっていた下着や私服類を身に着ける。
花形さんはおれに何をするつもりで、あんなことをしたのか、と飛雄馬はひとり、先程の花形の行動について考えを巡らせる。
彼の考えていることは凡人のおれには到底理解できぬ、と飛雄馬は身支度を整えると出入り口の扉の前に立ち、ただ一言、ありがとう、と言うなり会釈をし、ドアノブを回す。
その閉まる音を聞きつつ、花形は、ありがとう、ねえ、と飛雄馬の言葉を反芻しつつ、窓を叩く雨の音に耳を澄ます。
あとほんの少しで、ぼくはあの神とも崇める彼を手に入れることができたというのに。
花形は未だ掌に残るかの特訓の傷跡を5本の指でぐっと握り込むと、野球のバットを握るように両手を前に突き出し、幾度となく巨人の星の球をスタンドに叩き込んだバットを脳裏に思い描いた。
雨はまだ、止まない。