支度
支度 今帰ったぞい!と玄関の引き戸を開け、いつものように靴を脱ぎ散らして駆け込んでくる家主の足音を聞きながら、飛雄馬と老女は顔を見合わせ、ニコリと微笑む。
もう半袖シャツ1枚でいい頃合いだと言うのに、ネクタイを締め、揃いのスーツに身を包んだ伴がドタバタと台所にやって来て、星!とその顔をへにゃりと緩めた。
「お帰り、伴」
「おう、今帰ったぞい」
「坊っちゃんがお帰りになるとこんなに広い部屋でもすぐにわかります。ふふ、すぐ夕食を温めますね」
今日のおかずは何じゃ?と尋ねる伴に、飛雄馬はまずは手を洗ってこい、と洗面所の方を指差す。
「ちえっ、うるさいのがふたりになったわい」
「ホホホ。坊っちゃんは昔から星さんには頭が上がりませんね」
伴が廊下の向こうに消えるのを目で追ってから、飛雄馬は老女に、後はおれがやっておきますからおばさんは休んでくださいと彼女を労った。
「では、お言葉に甘えさせてもらいます。星さんも程々にしてお休みになりませんと、明日も早いんでございましょう」
「もう少ししたら眠ることにします。ありがとうございます」
会釈し、着ていた割烹着を脱ぎつつ台所を出ていく老女に飛雄馬も頭を下げ、その姿を見送ると、またドタドタと大きな足音を立て戻ってきた伴に視線を戻す。
「ん?うるさいのは?帰ったか」
「うるさいのとはなんだ、伴。おばさんにはもう休んでもらったさ。ちゃんとうがいもしたんだろうな」 手をハンカチで拭きながら台所へ入ってきた伴にそんな冗談を飛ばしつつ、飛雄馬は味噌汁の鍋を火にかけ、炊飯器から茶碗へと飯をよそった。
「馬鹿言え!星、からかうな」
「おばさんが嫁さんでももらえば伴の帰りも早くなるだろうかと嘆いていたぞ」
「嫁ぇ?またそんな……」
台所に置かれたテーブルに着き、椅子にどっかと腰かけた伴がまたおばさんのやつそんなことばかり言いおって、と、ぼやいた。
「伴の子供を抱いてからじゃないと死ねんとも言っていたな」
「…………」
味噌汁の鍋がふつふつと沸く音だけが静かな台所に響いている。
飛雄馬は無言のまま、小鉢にかけられたラップをひとつひとつ外すと、それらを伴の前に並べていく。
「おれのことを気にかけてくれるのはありがたいが、いい加減、自分のことも気にしたらどうだ。おれのいなかった5年の間、何か浮いた話がひとつでもあったのか。左門さんも花形さんも、今や妻帯者だ」
鍋の火を止め、伴に背を向けると、飛雄馬は味噌汁を椀へとよそう。
「なんじゃ、そんなことを気にしとったのか。なぁに、わしはまだまだ若い。星の後楽園球場での活躍を見届けてからでも十分、間に合うわい」
「…………」
味噌汁の入った椀を伴の前に置いてやってから、箸を彼に手渡すと、飛雄馬はそのままテーブルの対面への椅子へと腰を下ろした。
「自分から言っておきながら寂しくなったか。ワハハ、まったく星も昔と変わらんのう」
「おれは伴のことを思って……」
「わしのことを思うならそんなことを言うのはよしてもらおう。まったく嫁だ見合いだ結婚だと親父もおばさんもうるさくて敵わんわい」
味噌汁を啜り、伴はそれをテーブルに置くと、今度は茶碗に盛られた白米をがっつく。
「…………」
「星がこうして戻ってきてくれたことが何よりの幸せじゃい。勝手に頭の中でごちゃごちゃと悪い方向にばかり考えを巡らすのは辞めにせい!」
伴はそうまで言うと、皿のおかずをパクパクと勢いのままに口に運び、一気に味噌汁で流し込んでから満足そうに大きな腹を撫でた。
「茶を、入れようか」
「…………」
席を立ち、飛雄馬は食器棚に向かい合う。
ガラス張りの棚に映る顔と向き合いたくなくて、飛雄馬は目を逸らしたまま戸を開けると、湯呑みに手を伸ばす。
と、それが左手であったことが災いし、上手く湯呑みが掴めず、つるりと飛雄馬の指から滑り落ちた。
「────!」
「お、っと!」
一瞬、心臓が止まったような錯覚を飛雄馬は覚えたが、伴が寸前で湯呑みを手にしてくれたことで、再び彼の全身には血が巡る。
開きかけたままの指で拳を握り、飛雄馬は手を下げると、すまない、とか細い声で謝罪の言葉を口にした。
「弘法にも筆の誤まりと言うからな。ワッハッハ!なぁに、湯呑みのひとつやふたつ、割れたところで痛くも痒くもないが、星も疲れが溜まっとるんじゃないか?早く休め」
「おやすみ、伴。食器は水に浸けておいてくれ」
ぽつり、呟いて、飛雄馬は伴の顔を見ようともせず、台所を出ていく。
「星?」
語尾を上げつつ名を呼んだ伴を残し、飛雄馬は廊下を行くと、寝室にと宛てがわれた部屋の襖を開け、中に足を踏み入れた。
隣ではビル・サンダーがぐっすりと寝入っているようで、ここまでいびきが聞こえてくる。
飛雄馬は暗い部屋に入り、襖を閉めるとそのまま布団の中に潜り込む。
すると、飛雄馬の後を追い、暗い廊下の端までやって来たらしい伴が部屋の外から名を呼んだ。
飛雄馬は寝た振りを決め込み、布団が擦れる音さえも立てないように息を潜める。
「星、わしはな、その、ずっと星のことを心配しとった。そりゃ、わしだけじゃのうて、皆そうだと思うが、お前が腕を壊してしもうたのもずっとわしのせいじゃないかと悩んどったんじゃ。でも、星は昔と変わらずわしを親友と呼んでくれた。それだけじゃのうて、野球に再び懸けたいと言った。そんな星を置いて何が結婚じゃい。そんな暇はないわい」
伴のやつ、まだそんなことを気にしていたのか。
おれが左腕を壊したのは、伴のせいでも、親父のせいでもない。
おれが、この道を選んだ結果に過ぎない。
悪い方に、考えを巡らすのはきみだって同じじゃないか。
飛雄馬はもう一度、名を呼んだ伴に返事をし、部屋に入るように言うと、襖を開け、中に侵入して来た彼の到来を待つ。
「星、起こしてすまんのう、わ、たたっ!」
暗がりの中、枕元に膝をついた伴の首に飛雄馬は抱きつくと、遠慮がちに唇を寄せてきた彼に応え、口から甘い吐息を漏らした。
「………っ、」
「ほ、ほし、いかん。明日辛いのはお前じゃぞ。今日はやめておく、っ」
「ふふ。珍しいな、伴がそう言うのは」
ちゅっ、と伴の唇を啄むと飛雄馬は彼の首から腕を離し、おやすみ、と再び布団に体を横たえる。
「っ、ええい。この借りは倍にして返すぞい」
苦し紛れにそんなことを言う伴に対し、飛雄馬はふふっ、と微笑んだ。
それから、布団の中に潜り込み、飛雄馬はそこでようやく訪れた睡魔に身を委ねながら、部屋の襖が閉まる音を、どこか夢見心地の状態で聞いたのだった。