汁粉
汁粉 「明子はおらんのか」
長屋の引き戸を開け、顔を出した一徹が訊く。 宿題の漢字の書き取りをしつつ飛雄馬が顔を上げ、とうちゃんおかえり、と微笑んだ。
再び、一徹は自宅長屋の中を見渡すと、明子はおらんのか?と尋ね、飛雄馬はそれに対し、夕飯の買い物に出たよ、と答えた。
「そうか。ならば飛雄馬よ、外に出掛ける支度をせい」
「え?」
珍しく朝から日雇いの仕事に出た一徹が帰宅早々にそんな言葉を投げかけてきて、飛雄馬は妙な胸騒ぎを覚えたが、言われるがままに上着を羽織ると靴を履き、長屋の外へと出る。
ここしばらくは寒い日が続き、飛雄馬はぶるっと寒さに身を震わせた。
「あ、グラブとボール」
一徹が戸締まりをするのを待ちつつ、飛雄馬は自分が何も持ち合わせず突っ立っていることに気付き、しまった、とばかりに口元に手を遣る。
すると、一徹がじろりと鋭い視線を向けてきたために飛雄馬は肩を竦め、上目遣い気味に父を見た。
「心配せずともよい。今から向かう場所は野球には関係ないところだ」
「えっ?野球に関係ない?」
一徹の口から発せられたまさかの言葉に飛雄馬は目をぱちくりさせ、先を行く父の後ろ姿を見遣る。
とうちゃんが、野球に関係ないところに連れて行ってくれるだって?と飛雄馬は未だ状況が飲み込めず、何度も目を瞬かせた。
とうちゃんと言えば野球であったし、もっと小さな頃からとうちゃんとの遊びと言えばキャッチボールで、酔って口を開けば巨人軍で三塁手として活躍していた頃の話をするとうちゃんが、野球に関係ないところに?と一徹の言葉が何度も飛雄馬の頭の中を巡る。
「どうした飛雄馬。明子が帰ってきてしまうぞ」
「は、はい」
ずいぶんと前を歩く一徹を追いかけ、飛雄馬は彼の隣を歩く。
酒に酔っていないとうちゃんを見るのは本当に久しぶりのことで、飛雄馬はしっかりとした足取りで歩を進める一徹の横顔を仰ぐと、彼に気付かれぬよう微笑む。
長屋の皆や学校のクラスメイトたちはとうちゃんを飲んだくれだアル中だとか何とか言うけれど、酔ってないとうちゃんはすごく格好いいんだぜ、と飛雄馬は一徹に対し誇らしささえ感じる。
「今日は仕事、どこに行ったの」
「隅田川の堤防工事だ。先日の雨で決壊しかけとっただろう」
「だから早く帰ってきたんだね」
「ふふ、早く帰られると迷惑か」
「そ、そんなこと言ってないじゃないか!」
顔を真っ赤にして怒る飛雄馬をははは、と一徹は笑い飛ばし、もうそろそろだぞと話題を変えた。
一体、とうちゃんはおれをどこに連れて行こうと言うのだろう?と首を傾げた飛雄馬の目の前で一徹は甘味処と書かれた店の暖簾をくぐり、引き戸を開けたではないか。
「!」
「いらっしゃいませ。おふたりですか?」
「うむ」
まさかの事態に固まる飛雄馬を尻目に一徹は店員の促すままに席に着き、用意されたおしぼりで手を拭く。飛雄馬は開け放たれたままの店の入り口の戸の前で呆然と立ちすくんでいる。
とうちゃんが、こんな、甘いものを出す店に?と飛雄馬は再び目を瞬かせ、店内で思い思いにあんみつやら汁粉やら団子やらを食べる客たちを見渡し、ごくんと喉を鳴らした。
それから、恐る恐る店の中に足を踏み入れ、一徹の座る席の向かいへの椅子へと腰を下ろす。
「わしはここに来たら汁粉と決めておる。飛雄馬は何がいい」
「え、えっと………えっと」
そう、言われてもこんなところに来ること自体が初めてで、飛雄馬はまたしても周りの客たち着くテーブルの上に置かれた甘味たちをちらちらと盗み見る。飛雄馬が初めて見るわらびもちや葛切り、それに真っ白いアイスクリーム。
どれもこれもがとても美味しそうで、好奇心をくすぐる。あれも食べてみたいし、こっちも食べてみたい。きなこもちだって美味しそうだ。
「おれも、汁粉がいい」
散々、悩んだ挙句に飛雄馬はそんな言葉を口にする。
「………いいのか?他にもたくさん種類があるが」
「とうちゃんと、同じでいい」
「…………」
一徹は店員を呼び止め、汁粉をふたつ注文すると、彼女が持ち寄った湯呑みに口を付けた。
「とうちゃん、よく、来るの?この店。びっくりしちゃった」
「………お前たちの母親が好きでな。体が弱かった母さんが、唯一わしに連れて行けとせがむ場所がここだった」
はっ、と飛雄馬は目の前の父の顔を仰ぎ見る。
そんな柄でもなく、妻との思い出をしみじみと語る一徹に飛雄馬は胸が締め付けられるようで、口が利けなかった。
自分がまだ小さい頃に病気で死んでしまったかあちゃん。あたたかで、柔らかな腕の感触はほのかに覚えている。あの腕に抱かれて眠るのがおれはとても好きだった。
「ねえちゃんとは、来たことあるの?」
「あいにく、まだその機会に恵まれておらんでな。ふふ、今日ここに来たことは明子に内緒だぞ」
「うん」
一徹とふたり、秘密を持てたことが嬉しくて飛雄馬がにんまりと微笑んだところに汁粉がふたつ、運ばれてくる。
テーブルに置かれた椀の蓋を取ると、小豆の粒がきらきらと輝き、焼色の付けられた餅の入った汁粉が現れ、飛雄馬はまた、ごくんと喉を鳴らす。
話に聞いたことはあったが、汁粉を見るのはこれがほとんど初めてで、飛雄馬はいただきますと手を合わせてから箸を取り、椀を手にするとまず汁粉を啜る。
僅かに熱く、そしてほのかに塩気の混じる甘さが自然と顔を綻ばせてくれた。きつね色の餅もいい焼き加減である。
「おいしい」
「母さんも今の飛雄馬と同じ顔をして笑っていたな」
「うふふ……」
ふたり、そうして汁粉に舌鼓を打って、店を出る。 夕日は地平線にとっくに潜っており、辺りは薄暗い。
「飛雄馬よ、見えるか、あれが巨人の星だ」
立ち止まった一徹が指を指す方角、その澄み渡った空を飛雄馬は見上げる。
ゆっくりと訪れる闇の中でひとつ、大きく輝く星があって飛雄馬は頷くと、傍らに立つ一徹の手を握った。
「………とうちゃん、ありがとう。おれ、頑張るから。巨人の星を、掴んでみせる」
一徹は空いたもう一方の手で飛雄馬の頭を撫でると、自宅への道のりを歩み始める。
父の手を力強く握り返して飛雄馬は泣くのを懸命に堪えながらも唇を噛み締め、空を振り仰いだ。