信頼
信頼 星、と前を行く男の名をスーツ姿の伴は呼ぶ。何度も、何度も。そうして、彼の後を追う。けれども、彼は一度も立ち止まることもなく、背後を気にすることもなく、ただひたすらに駆けていく。
「星、待て!どこに、どこに行くと言うんじゃあ。わしを置いて」
あの日、中日─巨人戦が終わったあと、飛雄馬の見舞いに行ってやろうと伴は思った。星飛雄馬の左腕の筋がおかしくなった、とか、肘が壊れてしまった、とかそんなろくでもない話ばかりが伴の耳に入って、自身も満身創痍の状態であると言うのに痛む体に鞭打ち、かつての親友の入院している病院に向かおうとした矢先、彼の父親でもあり、中日の三塁コーチを務めていた星一徹が飛雄馬が消えた、と血相を変え飛び込んできたのだった。
それから行方しれずとなってしまった星飛雄馬の姿を、伴がやっと見付けたと思えば、彼はこちらを一瞥することなく、あの日あのままジャイアンツのユニフォーム姿の状態で駆け出した。背番号16が遠ざかっていく。
やっと見つけた星がまた消えてしまう。
この5年間、親父の会社を受け継ぎ、懸命に身を粉にして働きながら、どれだけ星野身を案じて毎日胃を痛めていたと思っとるんじゃあ、と伴はキッと次第に小さくなる16の数字を睨み据えて、一目散に駆け出した。30m、20、15、あと少し。
腕を伸ばせば、ああ、ついに星を見つけた──息せき切らし、伴は飛雄馬の左肘の辺りを掴む。するとどうだ、その腕はどろりと溶け落ち、地面に落ちたではないか。
「星!!」
叫んで、伴はガバッと体を起こす。目を数回瞬かせ、視線を左右に遣れば己がいるのは自宅の寝室で、体を横たえていたのは布団の中。嫌な夢を見たもんじゃあ、と伴は額にじっとりと浮いた汗を拭う。
はあ、と大きな溜息を吐いて、台所で水でも飲もうかと伴は布団から抜け出すと、畳の上を少し歩いて廊下へと繋がる障子を開けた。と、向こうからやって来る人影に気付いて、伴はハッと顔を上げる。
「どうした。伴もトイレか」
「ほ、ほしぃいい」
廊下の先から歩み寄ってくる星飛雄馬の顔を見つめ、伴は情けない声を上げると、そのままぎゅうと彼の体を抱いた。
「伴?どうした」
「変な夢を見たんじゃあ〜また星が消えてしまうんじゃないかとわしは無性に怖くなってしもうたんじゃ〜」
「またそんなことを言って……少し声を落とせ。お前の声は屋敷の外まで聞こえるぞ」
「星〜わしはもうお前と離れ離れになるのは嫌じゃい」
「ふふ、そんな女々しいことばかり言っていてどうする。もうお前は親父さんの会社の重役の身、おれはまた再び野球の世界に身を投じようとしている。そこからして生きる世界が違うじゃないか」
伴の背に腕を回しつつ、飛雄馬は彼を宥めるような台詞を吐く。
「そういう意味じゃないわい」
「さあ、もう寝ろ。明日も早いぞ」
腕の力が緩んだところで、飛雄馬は伴から離れた。この伴宙太が遠いアメリカから呼び寄せたビッグ・ビル・サンダーと名乗る大男を師と仰ぎ、飛雄馬は再びプロ野球界に返り咲こうとしている。
ゆえに、ここしばらくはこうして飛雄馬は伴の屋敷にて寝泊まりを繰り返していた。
飛雄馬が明日も早い、と言ったのはそのコーチとの朝練習に遅れるぞ、という意味である。
「……星、すまんが」
「どうした」
「一緒に寝てくれんかのう」
「…………」
「嫌ならいいんじゃあ……なに、わしも星の顔を見たら少しは安心したからのう」
「寝る、だけだぞ」
その言葉に顔を輝かせた伴を尻目に、飛雄馬は一人さっさと寝室に入ると、彼の寝ていた布団に潜り込んだ。
「せ、狭くはないか」
「ああ、だいぶ狭いな。少し節制した方がいいぞ」
「む、むう……」
「……冗談だ」
隣に体を横たえた伴をからかって、飛雄馬は小さく吹き出すと目を閉じる。
こうして共に並んで眠るのは果たしていつぶりだろうか。
もう遠い遠い昔のような気がしてしまう。青雲高校時代、はたまたジャイアンツ時代。いつも伴の体は温かくて、大きくて、それでいて優しかったことを覚えている。
互いの体温で次第に温まる布団の中で、伴はふと飛雄馬の手を握った。
「……に、握るだけじゃい。寝とる間に、星がどこにも行かんように」
「伴」
「な、なんじゃい」
「……皆がやめろと、無謀だと言う中、おれを応援してくれたのはお前だけだ。青雲高校時代、おれの球を取ると言ってくれたこと、同じ巨人軍にて魔球の練習や投球練習に夜遅くまで泣き言を言わずに付き合ってくれたこと、おれは一日たりとも忘れたことはない。ねえちゃんには花形がいる。でも、お前には誰もいない。行方をくらませたあとも、おれはずっと伴のことばかり考えていた」
飛雄馬は伴の手を握り返し、ありがとう、と言葉を紡ぐ。
「伊達に星の古女房は務めとらんわい」
「ふふ……そうだな」
言いつつ、飛雄馬は目を幾度となく瞬かせ始める。連日、朝から晩まで例のコーチ相手に練習を続けているのだ。さしもの飛雄馬と言えども疲れ果て、帰ってきて汗を流しては泥のように眠る毎日だ。
「付き合わせて、悪かったのう……」
「また、ゆっくり、話そう……」
話の途中で、飛雄馬は完全に瞼を下ろし、夢の世界へと旅立ってしまう。伴はすうすうと寝息を立てる飛雄馬の寝顔をしばらく見ていたが、己も眠るために彼の手を握りしめたまま目を閉じた。