新品
新品 ずいぶんとほつれや破れが目立つな、と飛雄馬は右手にはめたグラブを見下ろし、父との投球練習の合間にそんなことを考えた。
「飛雄馬!何をぼうっとしておる!」
激しい怒りを孕んだ言葉と共に球が走って、飛雄馬は慌ててそれを捕りに走った。
間一髪、父が放った球を捕らえ、ほっと飛雄馬が胸を撫で下ろしたところで、平手打ちをその頬に見舞われ、受け身も取ることもままならず飛雄馬は地面に倒れ込んだ。
「…………」
歯が頬の粘膜にぶつかって損傷したか、口内には血の味が混ざる。打たれた頬がじんじんと痛くて飛雄馬は瞳を潤ませる。
「投球練習中に考え事をするなど言語道断!今までお前はわしから何を学んできたんじゃ!プロたるもの目の前に飛んできた球は死に物狂いで追い掛け、捕れと教えた筈じゃろう!」
「ごめん、なさい」
半ばべそをかきつつ飛雄馬は謝罪し、手で涙を拭うと平手打ちされた際にこぼれた球を拾い上げた。
「む………?」
そこで飛雄馬の父である一徹は飛雄馬が手にしているグラブがぼろぼろで、彼の手にはもう小さくなっていることにようやく気が付く。
ははあ、さては飛雄馬はこれを気にしておったのだな──と合点したが、特別何かを言うでもなく飛雄馬から距離を取ると、キャッチャーミットを手に、構えた。
飛雄馬はそのポケット目掛け、投球モーションを起こすと真っ直ぐに球を投げ込む。
ミットのど真ん中で一徹もそれを捕えたために痛快な乾いた音が辺りに響いて、飛雄馬はニコッと笑んだ。
「よし、飛雄馬。次は長屋までうさぎ跳びだ」
「………はい」
額の汗を拭って、飛雄馬は鼻を啜る。
もう日は落ちかけ、街灯が付近を照らし始めていた。
星一家が住む長屋から少し離れた空き地で父と二人、飛雄馬が学校から帰るとこうして野球の練習に精を出している。
朝は早くから走り込みと称し、町内一周を命じられ、学校生活を終えた後は父との練習が待っている。
飛雄馬には周りの子供たちのように年相応に友人らと遊んだり、雑誌を読んだりするという余暇の時間はない。 父の目を離れ、自由があるのは学校にいる間だけだ。それでいて飛雄馬は積極的に友人を作ろうとはしない。
前述の通り、帰宅すれば父との練習が待っており、共に遊ぶということが出来ないからだ。せっかく誘ってくれた友の寂しそうな顔を見るくらいなら、初めから友達など作らないほうがいいと飛雄馬はそう、心に決め、クラスメイト達とあまり馴れ合うことはしなかったのだ。
父に褒められたいがために、偉大なる巨人軍の名三塁手と呼ばれた父に恥じない息子でいられるようにと飛雄馬は勉強にも真面目に取り組んだ。
元より、勉強は嫌いではなかったし、100点を取ってよくやったと父が言ってくれるのが何より嬉しかった。
「飛雄馬、行くぞ」
一徹はうさぎ跳びの格好をすると飛雄馬を呼ぶ。飛雄馬もそれに倣い、屈んで膝を折ると父の後ろを着いていく。
徒歩であれば10分少々の道のりであるが、うさぎ跳びでとなるとだいぶ距離はある。そうでなくとも、今日は学校で水泳の授業がありくたくただと言うのに。
「はぁっ…………はぁ、」
汗が流れ、目に染みる。けれども飛雄馬はそれを拭うことなく父の後を懸命に追った。あと5メートル。もう少し。
最後の一飛びをしたところで飛雄馬はそのまま後ろに尻餅をつく。がくがくと膝が笑い、汗が全身から吹き出した。
「宿題を済ませておくように。晩飯が済んだらまた守備練習を行う」
「……………はい」
「声が小さい」
「はい!」
飛雄馬は大きな声で返事をすると、そのまま背を向け去っていく父の後ろ姿をしばし見つめていたが、震える膝を叩き立ち上がると自宅の戸を開ける。
「飛雄馬、お疲れ様……おとうさんは?」
食事の準備をしていた明子が帰宅した飛雄馬におそるおそる声をかけてきた。
「どこか、ふらっと出て行ったよ。また酒でも、買いに行ったんじゃない?」
「そう。それなら飛雄馬、しばらく休んでおくといいわ。夕飯の支度はもうできたし、ねえさんが宿題、やっておくから」
「………いい。ありがとう。いつとうちゃんが帰ってくるか分からないから、今のうちにやっておくよ」
ふらふらと飛雄馬は靴を脱ぎ、居間に上がって鞄から帳面と鉛筆、それと教科書を取り出すとちゃぶ台の上で宿題に取り掛かる。意識が朦朧とし、激しい眠気が襲ってくる。
ああ、このまま後ろに倒れ込んで眠ってしまいたい。何も考えたくない。
うつらうつらと船を漕ぎながら宿題を解いていると、勢い良く自宅の出入り口の戸が開けられ、飛雄馬はそこでハッと覚醒する。
「とうちゃん」
戸を開けたのは紛れもなく先程どこかへふらっと出かけた父の姿であり、何やら手に包みを所持している。
「開けてみろ、飛雄馬。お前さっき、自分のグローブのことを気にしておったろう」 バサッと目の前に包みが放られ、飛雄馬は父とその品物を交互に見つめていたが、そっと包みを手にし、ガサガサとそれを開いた。
「あっ!」
すると、中から現れたのは新品のグローブで、真新しい革は部屋の明かりを受け、ピカピカと光っている。
「まあ!飛雄馬!よかったわね!」
一徹の後ろから顔を出した明子もグローブを目にし、声を弾ませた。
「とうちゃん、これ………」
「それで練習に精一杯励め」
「あ、ありがとう!とうちゃん!」
飛雄馬は満面の笑みを浮かべ、靴を脱ぐ父の背中を見つめる。
ああ、とうちゃんはやっぱり世界一優しくて、頼りになるとうちゃんだ、と飛雄馬は涙を流しつつ、父の背にとうちゃん!とうちゃん!と彼を呼びながら抱き着いた。
「ふふ、どうした飛雄馬よ」
「ありがとう!おれ、頑張るから!とうちゃんの夢だった巨人の星になれるように、一生懸命頑張るよ!」
「そろそろご飯にしましょう」
明子もまた飛雄馬と同じく涙を流しながら台所から箸や茶碗を持ち寄る。
おれも手伝うよと飛雄馬は姉に手伝いを申し出た。
飛雄馬が中学卒業後の進路についての書類を学校に提出しなければならない期日がもう間もなく迫っている。
一徹はニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべ、明子と共に夕飯の準備を行う飛雄馬の弾んだ声を聞きながら、つい先程覗いてきた青雲高校柔道部のとある人物の顔を思い浮かべていた。