式典前
式典前 「星ぃ、早いとこ支度しないと遅刻するぞい」
「ま、待ってくれ。ネクタイが上手く、結べなくて」
伴は手首にはめた腕時計を見下ろしつつ飛雄馬を急かす。
青雲高校野球部創立10周年式典なるものにこの日、ふたりは呼ばれており、伴は野球部の後援会会長と言うこともあって数日前からそわそわと落ち着かぬ様子であった。
しかして、青雲高校を甲子園大会準決勝にまで導いた功労者であり、今尚、プロ野球選手として活躍している今や時の人とも言っても過言ではない、星飛雄馬本人はすっかりこのことを忘れていたのである。
今日も朝からランニング中に遊びに来てくれた巨人寿司の幸子たちと戯れていたところに伴が慌てふためきながらやって来て、そこでやっと思い出すに至ったのだ。
数週間前にわざわざスーツまであつらえ、伴の屋敷に顔を出す時間の約束までしていたと言うのに飛雄馬にしては珍しくこのやり取りさえも頭からすっぽりと抜け落ちていた。
飛雄馬は顔面蒼白の状態で伴の乗ってきたベンツの後部座席に座っていたが、伴の屋敷に到着するなり慌ててジャージを脱ぐと汗を流し、タンクトップの上から皺ひとつないシャツを羽織る。
そうして、シャツの色に合わせたネクタイを襟に通していざ結ぼう、としたところで変にもたついた。
「にゃにい?ネクタイが結べんじゃとお?」
「なんか、どうも………」
「貸してみい!大リーグボールなどと呼ばれる魔球をほうっておった星がネクタイごとき結べんとはおかしな話じゃのう」
ワッハッハと伴はいつもの豪傑笑いで飛雄馬を笑い飛ばすと、彼のそばに歩み寄って彼のシャツの襟元に巻かれたネクタイを手に取り、いとも容易くそれを結んでやる。
「苦しくはないか」
「あ、ありがとう。伴。助かったよ」
「…………」
ホッとした表情を浮かべた飛雄馬の頬に伴は大きな掌を這わせ、彼の唇に親指の腹で触れた。 「まったく。星は相変わらず変なところが抜けとるのう」 「こんな格好、めったにしないからな。ふふ、さすが伴重工業の常務だけあって手慣れたものだ」
ふたりは互いに鼻先を突き合わせたまま、そんな会話を繰り広げる。
「青雲の連中は星に会うのを皆、楽しみにしとるぞい」
「あれからもう、10年になるんだな」
飛雄馬はふいに伴から視線を逸らして、ポツリとそんな言葉を口にする。
「色々、あったのう。この10年で」
「………きみには苦労をかけてばかりだ」
「まったくじゃい。今日だって約束の時間を過ぎたのに来ないから慌てたぞい」
「伴だって十分、甲子園で活躍したんだ。わざわざおれが出ずともその時の様子を語ってやればいいじゃないか」
「こんなおっさんの自分語りなぞ誰が好きこのんで聞くかい。星がいなければ今のおれはないし、はたまた甲子園など夢のまた夢だったからのう」
「それも、伴がおれの球を捕ると言ってくれたからだろう」
視線を逸らしたままの飛雄馬の顔を上向けさせ、伴は優しく彼の唇に自分のそれを触れさせた。
「星の球だから捕りたいと思ったんじゃい」
「またそんなことを言う」
「何遍だって言うてやるわい」
くすっと伴は笑みを溢すと飛雄馬に再び口付けを与え、やや顔を傾けて唇を開いた彼の口内へと舌を滑らせる。
飛雄馬の体がぴくんと震えて、閉じたまぶたの縁に生え揃うまつ毛が揺れた。
「伴、っ………待て。遅刻するぞ」
「遅刻?ああ、そうじゃったのう」
名残惜しそうに伴はぼやいて、腕時計に視線を落とすと、行くぞい、と飛雄馬を促す。
「見境ないな。伴は」
部屋を出て、廊下を歩きながら飛雄馬が嫌味を漏らして、伴をチクリと刺した。
「星だって嫌がってなかったじゃろう」
「………さて、どうだろうな」
「こいつう!」
「ふふふっ」
ドタドタと足音を立てつつ伴は飛雄馬を追いかけ、飛雄馬は楽しそうに笑みさえ浮かべながら駆け足で彼から距離を取って、そのまま玄関先で靴を履くと門の前で待っていたベンツに乗り込んだ。
「ひぃ。この年で全力疾走は疲れるわい」
やっと追いついた伴も汗をハンカチで拭きながら飛雄馬の隣へと座った。
「典型的な運動不足だな」
「たまには体も動かさんといかんのう」
「……………」
ここにきてひとつ、飛雄馬には悩みのタネがあった。背番号3を背に右投手として復帰したときから捕手役を勤めてくれていた楠木と言う男が存在していたのだが、彼は前シーズンを最後に実家の手伝いをしたいと言って、現役を引退している。
楠木の事情を聞いた飛雄馬は自分は大丈夫だからと引退を渋る楠木の背を押す形で彼を退団させ、一人、新たな魔球開発の構想を誰に打ち明けるでもなく練っていたのだ。
今や会社の重役となってしまっている伴に頼み込むわけにもいかず、かと言って成功できるかどうかも分からぬ魔球開発特訓に付き合ってくれるような手の空いている捕手は現巨人軍には存在しない。
気ばかり焦って、解決策もほとんどと言っていいほどないまま、新たな捕手役の当てもろくにないままシーズンを迎えようとしている。
「星?」
窓の外をじっと見ていた飛雄馬を訝しみ、伴が彼を呼んだ。
「あ………どうした?」
伴を振り返り、飛雄馬は極めて平静を装う。
「緊張、しとるんかのう?いや、何かお前のことじゃから色々考えとったろう」
「………壇上に立つなんて初めての経験だからな。緊張しているのさ」
「星。何度も言っとるじゃろ。一人で考え込むな、と。わしももうあの頃のような子供じゃないぞい」
「伴の、考えすぎだ」
飛雄馬は独りごちるように呟いて、じっと前を向く。
「…………星と、野球が出来るといいんじゃがのう」
飛雄馬は伴の己が心中を察したかのような台詞に泣きそうになりつつ、ベンツが青雲高校の正門をくぐるのを視線の端に捉える。
と、ふと、かつての伴を彷彿とさせるような大柄な男が立っているのが目に入って、飛雄馬は車を降りてからもしばらく彼を見ていたが、すぐに星!と伴に呼ばれたために慌ててそちらの方に駆けた。
それが、いずれ巨人軍を牽引することとなる名捕手役と飛雄馬の初めての出会いであり、はたまたその男、丸目太が星飛雄馬という男に一瞬にして心を奪われた瞬間だった。