選択
選択 コツ、コツ、と廊下を歩む足音に伴はハッと目を覚ます。
いつの間にかうとうととしてしまっていたようだ。 ここに来て、もうどれくらいの時間が経っただろうか。
マンションを訪れた時間が遅かったゆえに、人目につくこともなく伴はこうして星飛雄馬の部屋の前で家主の帰宅を待つことができた。
明け方近くに新聞配達のおやじが新聞片手にここを訪れた際、1部売ってもらったスポーツ紙を冷えた尻の下に敷き、ただただ彼の帰りを待って、手首にはめた腕時計を睨むことの繰り返し。
朝を迎え、マンションの住人たちが活動を各々始めつつある、そんな中、伴は聞き慣れた足音を聞いた。
「……伴!」
その声に、伴は眉間にやや皺を寄せつつ、「……朝帰りかい?」と嫌味を口にする。
伴の登場に驚いたような、はたまた困惑したような表情を浮かべた彼──星飛雄馬は、何やら言葉を濁しつつ、そんなところだと視線を泳がせた。
星が朝帰りなどとは珍しいこともあるものだ、一体、どこで誰と、何を?と訊きたいことはたったこの数分のやり取りの中で山のように浮かんだものの、伴は部屋の鍵を開けた飛雄馬の後に続き、その中へと足を踏み入れた。
「よく、来られたな。とうちゃ……いや、星コーチには何も言われなかったか」
尋ねた星の目が少し、赤いようにも伴には感じられる。
「ふん、別に星に会うのにコーチの許可などいらんわい」
「ふ、ふ……それもそうか。それで、いつ来たんだい」
「昨夜11時!」
では、ざっと8時間も?と飛雄馬は訊き返し、それから、単独で帰京したものの誰もいないマンションに帰る気にはなれなくてな、とどこかぼんやりとした顔で続けた。
「………長いつきあいじゃい。それくらい、わかっとる。魔球の死を迎えたからにはちんたら巨人と行動をともにできず逃げもどる心理は読めるっ」
「…………何もかも、お見通しときたか。長いつきあい。嫌な言葉だ。こうして顔を突き合わせるとどうしても気が緩む」
「星……」
「…………」
違う、こんなことを言いに来たわけではない。
ともすれば、雰囲気に飲まれてしまいそうになる。
星が、明子さんと共にここに越して来てから、はたまた彼女が行方しれずになってしまってからも、おれはずっとこの部屋を訪れて来た。
恐らく、目を閉じていたって部屋の中を自由自在に歩けるだろう。
どこに何があるか手に取るように分かるだろう。
そうしてここで何度、あの肌に顔を埋めただろう。
ああ、いけない。またこんなことを考える。
試合のあと、疲れきった体で睡眠不足のままここを訪れたせいだ。
「どこに、行っとったんじゃい。こんな時間まで」
「ちょっと、な。なに、大したことじゃないさ」
コーヒーでも飲むか、と飛雄馬は続けつつ、伴から距離を取る。
「おれには、話せんのか」
「…………話して、何になる?別に、おれがどこで誰と、何をしようと、伴には関係のないことだ。もう、おれときみは友ではない」
「…………」
「お互い、割り切れるような間柄なら、苦労はせん。ふふ……本当に、大したことじゃないんだ。少し気分転換をしていた」
水道水を溜めたやかんを火にかけ、飛雄馬は苦笑した。
「気分は、それで晴れたか」
「…………少し、寝ていくといい。顔色がよくない」
「はぐらかさんで答えろ、星」
「…………」
「星!」
突然の大声に、飛雄馬はビクッと俯けていた顔を上げ、伴を見上げる。
「伴……やめろ。飲んだら、もう、帰ってくれ。疲れた、おれは、もう、眠りたい」
再び俯いた飛雄馬の声が震えており、伴は唇を強く引き結ぶ。
違う、おれは、こんなことをしに来たわけじゃない。
星を、地に落ちかけた不死鳥を、再起させるためにここを訪れたのに。
「星……」
飛雄馬の立つ台所、そのコンロの前まで伴は歩み寄るとそっと親指で彼の頬を伝う涙を拭ってやった。
「…………!」
目の前に立つ伴を仰ぎ、飛雄馬は何か言いたげに唇を少し動かしたものの、すぐにそれを噤むと、顔を横に振る。
「本当に、これで、よかったのか?」
「よく、ないと、戻ってきてくれと、言ったら、伴はぜんぶ、何もかも、かなぐり捨てて、おれのもとにきてくれるって言うのか?違うだろう。そうじゃない。きみは、伴は自分の信じる道を行くべきで、おれは……」
ぽつり、と伴が紡いだ言葉に誘い出されるようにして、飛雄馬の胸の内が一息に溢れた。
「やり直そうじゃないか、星よ……今からでも、遅くはない」
「いい気なもんだな、伴……!今更何をやり直すと言うんだ。あの日、あの瞬間、きみとの友情も、過去も、全部、あのマウンドにおれは置いてきた」
「…………」
ああ、どうして、そんな顔をするのか、星よ。
こんな顔を見せたくないと一生懸命堪えたのだろうに、そんな顔をさせてしまったのは紛れもなくおれ自身で、きさまはひとり、何度ここで泣いたことだろう。
自惚れかもしれん、星なら大丈夫だと信じきれなかったおれの女々しさかもしれん。
「もう2度と、ここには来るな!」
大粒の涙を両の瞳から滴らせつつ、飛雄馬は叫ぶ。
湯が湧いたか、やかんの注ぎ口から微かに湯気が立つ。
伴は震える飛雄馬の体を、何のためらいもなく抱き締め強く掻き抱く。
「…………!」
飛雄馬の震えがぴたりと止まり、一瞬、強張った体もすぐ緊張が解けたように柔らかくなった。
「星、おれは」
「っ…………」
抱いた腕の力を弱めて、伴は顔を突き合わせる形を取った飛雄馬の涙に濡れた唇へと自身のそれを押し当てる。
ほとんど無意識と言ってよかった。
互いの熱を、思いを、感情をその唇に込めて、ただひたすらに求め合った。
僅かに、触れる舌が熱く、恐らくアルコールでも嗜んで来たのだろう、と伴は思ったが、最早そんなことを尋ねる余裕もない。
こんなことになるのなら、肌の感触など知らなければよかった。
熱い吐息を漏らし、快楽に喘ぐ顔など見なければよかった。
「あ…………っ、う」
ふと、飛雄馬が漏らした声に伴はハッ!と我に返る。
「ほ、星………」
「だから、っ、やめろと言ったのに…………」
ごくん、と唾液を飲み込んで、飛雄馬は爪先立ちになると伴の首に縋るよう腕を回す。

ああ、おれたちは、どこで道を踏み外したのか。
おれは、何のために野球をしていたのか。
とうちゃんのためか、自分のためか、それとも伴がいてくれたからか。
誰がこの結末を、予想できたと言うんだ。
「あ、う、うっ……」
伴の体がこの状況に恐れを為したか、わなわなと震える。
多分、ここが分岐点なのだ、と飛雄馬は思う。
身を委ねてしまおうか、この優しく力強い腕に抱かれて何もかも忘れて眠ってしまおうか。
とうちゃんの痛みを伴う、暴力的なそれとは違う、常にこちらを気遣い、労ってくれる優しいこの男に、何もかも全部背負わせてしまおうか、と。
「…………」
飛雄馬は踵を床につけ、伴から手を離す。
ビクッ!と伴は体を跳ねさせ、やっとそこでまともに呼吸ができたか大きく肩を上下させた。
ほら見ろ、いつも始めるのは伴のくせに、尻込みするのも彼なのだ。
コンロの火を止め、飛雄馬は無言のままインスタントコーヒーの瓶を手に取る。
「もう、おれと伴、個人の問題じゃない。穴を空ければ皆に迷惑がかかる。野球はひとりでするものじゃない」
「あ、っ…………星、それは、綺麗事じゃい!いついかなる状況でも、他人様のことを優先するその心持ちは結構なことじゃが、おれは、おれは星とずっと……」
「伴、やめろ。そこから先は口にするな」
「きさまは、戦えるのか?おれと、マウンドで、敵同士、そう、割り切れるのか」
「そのときが来たらそうしよう、おれは巨人の星で、きみは中日の伴宙太だ。2号も死んだ今、ふふ、おれがきみと対峙する日が来るとは思えんがな」
本当に、きみは女々しいやつだなと飛雄馬は用意したカップにインスタントコーヒーを用意しながら、つんと鼻の奥にこみ上げるものをグッと飲み込む。
おれを慰めに来たつもりだろうが、これじゃあまるっきり反対じゃないか。
「…………」
「飲んだら、帰るといい。次の大洋戦が残っているだろう」
やかんの湯をカップに注いでから、飛雄馬はスプーンで少し中身をかき混ぜてやるといつもの調子で砂糖を投入する。
「あ……」
「……!」
驚いたように伴が声を上げ、飛雄馬もまた、しまったとばかりに目を見開く。
長いつきあいとは罪なものだ──いつもの癖で、何のためらいもなくこんなことをしでかしてしまった。
「気にせんで、ええわい。なに、砂糖の量を覚えていてくれたのは、素直に、嬉しいからのう」
伴は飛雄馬の用意してくれたカップを手にすると、一息にぐいとそれを飲み干し、大きく深呼吸をした。
「……」
飛雄馬はこの、どこか懐かしささえ感じる風景にまた泣きそうになるのを堪えながら、伴の横顔を見つめる。

伴にもっと強引さがあったら、いや、おれはこんな彼だからこそ好きになって、恋をしたんだ。
こちらの分岐を選んだのはおれの方だ。
差し伸べてくれた手を、振り払ったのはおれ自身だ。
「星の、淹れてくれたコーヒーはやっぱり美味しいわい」
ほら、そしてこうして、また決心を揺らがせるようなことを言うのも、いつも伴の方だ。
飛雄馬ははにかんだような笑顔を浮かべる伴に微笑み返すと、きみの活躍、期待してるぜ、と精一杯の強がりを口にしてみせた。