洗濯
洗濯 「あら、飛雄馬。いいのよ、私がやるわ」
夕飯の買い物に出ていた明子は、長屋の玄関口で盥に水を張り、洗濯板で泥で真っ黒に汚れたユニフォームをこする飛雄馬を見咎め、そんな声をかけた。
「あ、ねえちゃん。おかえり」
俯き、一生懸命にユニフォームの汚れを落としていた飛雄馬は明子の声に顔を上げ、ニコッと笑む。
冬の冷たいが吹きすさぶ、年末迫る12月のことで、洗濯板で衣服をこする作業ゆえに体は暖まり、額には心なしか汗さえ浮かんでいたが、飛雄馬の肉付きの良い頬や水に触れる指先は真っ赤になってしまっている。
今の今まで、お父さんと練習をしていたであろうに、と明子は時折、冷えた指先を吐息で暖め、感覚を取り戻しつつ洗濯板にユニフォームをこすりつける飛雄馬を見て、不憫に思った。
「飛雄馬」
「ねえちゃん、今度からはさ、おれ、ユニフォームくらいは自分で洗うよ」
真っ黒に染まった水を盥を傾け、近くのドブに流し込むと、飛雄馬は長屋の中に一度引っ込んで、盥に水を溜め再び顔を出す。
「練習で疲れてるでしょうに……いいのよ、気にしなくて」
「それはこっちの台詞だよねえちゃん。家の掃除やご飯の準備、飲んだくれ父ちゃんの尻拭いだけでも大変なのにさ。いつも真っ白なユニフォームをねえちゃんが用意してくれてた苦労が、やっとわかったような気がするぜ」
額の汗を手で拭って、飛雄馬は一度ユニフォームを開いて汚れがあとどれくらい残っているかを確かめた。
「ふふ、初めてにしては上手いんじゃない」
「なんなら洗濯係はおれがなってやってもいいぜ、ねえちゃん」
「飛雄馬の仕事は勉強でしょ。調子に乗らないの」
「へへっ、バレたか」
舌を出して、飛雄馬は片目を閉じる仕草をして、汚れたユニフォームの前面を洗濯石鹸を付けてから板でこする。
すると、またみるみるうちに盥の中身は真っ黒になって、飛雄馬はまたその水を入れ替える。
「ねえちゃん、寒いだろう。中に入んなよ」
「替えのズボンのポケット、破れてたの繕っておいたからね」
「えっ!ありがとう、ねえちゃん」
「いいえ、どういたしまして」
笑顔で答えつつ、明子はこちらに背を向け新聞を読む一徹にただ今帰りました、と声を掛けてから夕飯の準備に取りかかる。
すると、また、飛雄馬が顔を出して水を取り替えてくれと言ってきたために、作業を中断し、盥に水を汲んでやった。
それから、研いだ米の入った鍋を火にかけ、味噌汁の準備を始めた頃にやっとユニフォームを一式洗い終えたか、耳まで赤く染めた飛雄馬が小さな体を寒さゆえに更に縮こめて、長屋の中に入ってくる。
「綺麗に洗えた?」
「うん。物干しにちゃんとかけたよ」
返事をしつつ、飛雄馬は冷えた指同士をこすり、吐息をそこへ吐きかけた。
「飛雄馬、貸してごらんなさい」
言って、明子は飛雄馬の冷たい手をその暖かな白く柔らかな手で包んでやる。
じんわりとほのかに明子の体温が冷えた指にぬくもりを与え、飛雄馬はやっと手指の感覚を取り戻す。
「ねえちゃん、今日の夕飯は」
「それはいいから、宿題やってしまいなさいな」
「ちぇっ。はぐらかされた」
頬を膨らませ、飛雄馬は靴を脱ぐと居間へと上がり、明子に言われた通りに宿題に手を付けた。
一徹は無言のまま新聞をめくっている。
コトコトと鍋の中身が沸騰し、音を立てた。明子は火を消し、そこに味噌を溶かしてから再び煮立たせ始める。
魚屋で安く購入でき、焼いていた鯖からは良い匂いがし始め、飛雄馬の腹が鳴った。
「あ」
「うふふ、もうご飯にしましょうか」
「うん!おれのぶん、ご飯大盛りにしてよねえちゃん!」
「はいはい、飛雄馬ったら」
くすくすと笑みをこぼしつつ、明子は魚を皿に乗せてから茶碗に飯をよそって、味噌汁を椀に注いだ。
それらを人数分、箸と共に盆に乗せて明子は居間へとやって来た。
「はい、お父さん」
先に一徹の方へ並べてやってから、明子は、はい、飛雄馬と要望通り茶碗へ山盛りいっぱいによそった飯を飛雄馬に手渡した。
「いただきます!」
飛雄馬はニコッと微笑んでから、飯を口いっぱいに頬張る。
「明子、この漬物美味いな」
「そう?よかった。初めて漬けたから不安だったけど、嬉しいわ」
めったに人を褒めない一徹にそう言われ、明子は頬を染める。
飛雄馬は今日、学校であった話を面白おかしく語って、明子はその話をウンウンと頷きながら聞いてやったし、黙ってはいるものの、一徹もそれを咎めることなく味噌汁を啜り、魚の身を毟ると口に運ぶ。
何の変哲もない、夕餉のひととき。
明子はずっとこの風景が続けばいいな、とそんなことを思いつつ飛雄馬の頬に付いていたご飯粒を指でそっと取ってやる。
ありがとう、ねえちゃんと笑う飛雄馬に笑みを返し、おかわりは?と明子は優しく二人に尋ねたのだった。