背伸び
背伸び 星、すまんが練習用の球を持ってきてくれ、と天野に言われ、飛雄馬は伴との投球練習を中断し、一人野球部部室に戻った。
今日は小宮先輩に投げてもらい、他の部員たちは各々バットを手に打球の練習に励んでいる。
球拾いをせっせとするよりも球数を増やし打たせることに専念したほうが良いだろう、ということで飛雄馬に白羽の矢が立ったのだった。
飛雄馬の左腕が放つ球は捕れる相手もいなければ、まともにバットの真芯にミート出来る選手などここ青雲──否、関東の高校にはどこにも存在はしないだろう。
だからこそ唯一、飛雄馬の球を捕れる相手・伴宙太とこうして二人っきりで練習を重ねているのだ。
飛雄馬は部室に入ったものの、球が入った籠が辺りには見当たらず、はて?と首を傾げる。
先日まで確か、ロッカー端の隅にあった筈だが──とそこまで考えて、はたと気付く。そうだ、先日けつまずいて邪魔だ、と野球部いち背の高い伴がロッカーと天井の間の隙間に籠を乗せたのだ──と。
しまった、伴を呼ぶか、とも飛雄馬は思ったが、何か踏み台になるものを探して自力で取ってしまおう、とそう、考えた。
けれども、踏み台になりそうなものといえば、着替えの際にストッキングやソックスを履くために使用するパイプ椅子くらいしかなく、飛雄馬はこれを使うか、とロッカーの前までそれを引きずって、スパイクを脱ぐとその上に乗った。
手を伸ばせば届きはしたもののいかんせん硬球が籠いっぱいに入っているために重い。これを頭の上から下に降ろすとなると相当の腕力が必要だが、と飛雄馬は籠の左右の縁を掴むと、ぐっとこちらの方に引き寄せた。
その瞬間である、パイプ椅子の足元が滑ったためにバランスを崩し、あわや転倒──と恐怖のために目を閉じ体を強張らせた飛雄馬だったが、いつまで経っても床に着地することなく、それどころか何者かによって支えられているようで目をうっすらと開ける。
「…………ば、伴!」
「間に合ってよかったわい……危ないところじゃったのう」
飛雄馬の体をその逞しく大きな腕で支えてくれていたのはついさっきまで共に練習をしていた伴宙太その人で、捕手用のプロテクター等もそのままに部室に来てくれたらしかった。
「なんで、伴が。あんまり遅いから天野先生に言われたか」
「なんの。先日、球入れの籠をロッカーの上に置いたのを思い出してのう。ちびの星には──おっと」
飛雄馬を床に下ろしてやってから伴はガハハと笑い、そんな言葉を発したが失言とばかりに口元を掌で覆った。
「………………」
「け、ケガがなくてよかったのう。エースの星にケガでもされたら甲子園など、うんにゃ、都大会優勝なぞ夢のまた夢じゃい」
これまた盛大に笑ってから伴はロッカーの上から籠を降ろしてやる。
床にドンと置かれたそれを見下ろしつつ、飛雄馬は、「助かったよ、伴。すまないな」と小さく呟いてから、身を屈め籠の持ち手を握った。
「ほ、星」
「ほら、皆を待たせるとよくない。行こう」
「…………」
重たそうに籠を持ち、飛雄馬は部室を出て行く。持ってやろうか、と伴が飛雄馬に声をかけることは容易い、けれども、それは飛雄馬の自尊心を、劣等感を刺激してしまうに違いない、と伴は差し出した手を引っ込めると、強く拳を握る。
よろよろ、とどこか覚束ない足取りではありつつも、飛雄馬は部員らの前に練習用の球の置かれた籠を置くと、礼を言う天野に会釈をし、グラウンドの隅へと戻った。
伴はその姿を黙って見つめていたが、彼が右手にミットをはめるのを目の当たりにすると、自身もまたミットを装着し飛雄馬の前で身を屈め、左手を構えた。
飛雄馬はモーションを起こし、球を伴のミット目掛け投げ込む。
乾いた小気味いい音がグラウンドに響いて、打球練習を中断していた部員らの歓声が上がる。
捕球した際の衝撃がびりびりと伴の掌から腕、そして全身に走った。
先程まで受けていたものよりも速く、そして鋭く幾分か重いその球は何も語ることのなかった飛雄馬の心の声のような気がして、伴はマスクの下で目を細める。
伴がミットの中から球を取り、飛雄馬に返球しようとしたところで、打球練習が再開されたかバットの芯が球を捉えたカキーンと言う音ともに放物線を描き、球は青空を流星のように駆けた。
飛雄馬は伴からの返球を受けると、球をぎゅうっと握り締めてから、再び投球モーションを起こし、左腕から剛速球を矢のように一閃、放った。