折檻
折檻 「しばらくここに入っておれ!」
猫の子のごとく首根っこを掴まれ、飛雄馬は父である星一徹に押し入れの下段へと叩き込まれる。
そうしてそのまま唯一の出入口である引き戸──襖が勢いよく閉められ、飛雄馬の全身は闇に包まれることになった。
内側からは開けられぬよう、つっかえ棒まで噛ませてある。
襖一枚隔てた向こうでは、明子が弟である飛雄馬を庇い、頭に血の昇った父に平手打ちを食らわせられるいつもの──光景。
幼い頃からとうちゃんは何かあるとすぐおれたちをこの押し入れへと放り込んだ。
ここで反省し、頭を冷やせと言うことらしいが、今更この闇は恐ろしいとも寂しいとも感じない。
むしろ、居心地よくさえある──。
飛雄馬はかび臭い、この薄暗く狭苦しい一角の壁に背を預け、膝を抱く。
開けてくれ、と泣き喚き、ここを叩いたところで助けは来ない。
それどころかうるさい、と余計怒りを買うことになる……。
飛雄馬は抱いた膝頭に顔を埋め、奥歯を噛む。
野球をやりたくない、と思うことはそんなにいけないことなのだろうか。
ひとしきり頬を張られたせいで口の中が切れたか唾液に血の味が混じる。
頬も腫れてしまっているのか鈍く痛む。
明日の朝には腫れが引いているといいんだが。
そうじゃないとまたクラスメイトたちにからかわれる。おれは、なんのために産まれたんだろう。
とうちゃんの夢を叶えるため。巨人の星になるため、そのためだけに産まれたんだろうか。
ねえちゃんが啜り泣く声が聞こえる。
おれのせいで、ごめんよ、ねえちゃん。
ねえちゃんは何にも悪くないのに。
こんなことならせめて夕めしを食べてからにするんだった。腹が減った。
飛雄馬はぐう、とこんなときでさえ食い物を寄越せと催促する腹を撫でる。
ただでさえ飲んだくれのとうちゃん。
何かしら理由をつけて働きに行くのを渋るとうちゃん。
家計の遣り繰りにいつも頭を抱えているねえちゃん。
とうちゃんが日雇いで稼いだ僅かな賃金も溜まりに溜まったツケを払い、酒を買えばすぐに底をついちまうって言うのに。
なれるかどうかわからないプロ野球選手を目指すよりもこれからの時代、しっかり勉強していい学校に進学して公務員なり何なりを目指す方が、よっぽど地に足がついた生活を送れると思うんだが、とうちゃんはそうは思わないようで──おれは同級生らがメンコにベーゴマ遊びに夢中になるのを横目で見ながら、野球の硬球を投げる毎日を送っている。
ただでさえ体につけたギブスの軋む音が気持ち悪い、とおれには誰も寄り着こうとはしないって言うのに。
「ええい、明子!めしはまだか!」
「で、でも、飛雄馬が……」
「巨人の星を目指さぬと、野球はやらんとほざくやつに食わせるめしはないわい!」
「おとうさん……」
「うるさい!女に何がわかる!」
「…………」
父が怒鳴り、怯えきった姉が身を竦めながら食事の支度をしている光景が飛雄馬の脳裏にはありありと浮かぶ。
ねえちゃんがもし、男だったらおれはこんな思いをせずに済んだんだろうか。
本当は高校に進学したかったとねえちゃんはいつだったかおれに話してくれたことがあった。
おれはそれを聞いて驚いたと同時に、とても悲しくなったことを憶えている。
ねえちゃんにもおれと同じように夢があったに違いないのに。
ねえちゃんの人生を半ば犠牲にして、おれの意志を押し殺してまで叶えなければいけない夢とは一体何なのだろう。
おれやねえちゃんは、とうちゃんの夢を叶えるために産まれてきたわけじゃないだろう。
とうちゃんはそれでいいのだろうか。
「……飛雄馬、考え直す気になったか」
「…………」
襖越しに名を呼ばれ、飛雄馬は俯けていた顔を上げる。
おれは、おれの人生を生きたい、そう思うのに。
こんな家、本当はすぐにだって飛び出してしまいたい。だけど、それをしてしまったらねえちゃんはどうなる。とうちゃんは酒に溺れ、体を悪くするかもしれない。
だから、おれひとり我慢すればいいんだ。
全部押し殺して、全部飲み込んで、とうちゃんの言うことを聞いていれば全部うまくいく。
ようやく左手で球を扱うことにも慣れてきた。
おれが頑張りさえすれば、とうちゃんは笑っていてくれる。
野球はやりたくない。
だけど、おれはそうしないと星飛雄馬じゃ、星一徹の子じゃいられない。
「うん……さっきはあんなこと言ってごめんなさい。おれ、野球やるよ。とうちゃんと一緒に、これからも頑張るよ」
「…………」
ゴトゴトと何やら物音が外から聞こえて──開けられた襖の隙間から覗く明かりが眩しく、飛雄馬は目を細めた。
先程聞こえた物音はつっかえ棒を外すそれだったのだろう、既に押し入れのある居間──卓袱台の上には今日の夕飯が人数分並べられていて、飛雄馬は閉じ込められていたそこから抜け出すと、自分の定位置へと着いた。
「いただきます」
飛雄馬は両手を合わせ、そんな文句を口にしてからちらりと姉に視線を遣った。
はたかれた頬は痛々しく腫れ上がっている。
おれのせいでごめんよ、ねえちゃん──そんな飛雄馬の心の声が届いたか──明子は腫れた頬を押さえ、顔を逸らす。
「飛雄馬、めしが済んだらさっきの続きをするぞ」
「…………」
まるで砂を噛んでいるような感覚、せっかくのねえちゃんの料理もまったく味がしない。
もう日が暮れ、球なんかほとんど見えないだろうに。
中断してしまった左腕で百球、真っ直ぐ投げる練習をとうちゃんは続けると言うのだ。
誰ひとり、口を開くことのない静かな食事の時間。
息が詰まる。
誰だっていい、ここから連れ出してほしい。
この六畳一間の地獄から。
飛雄馬は姉が作ってくれた料理を掻き込むようにして頬張ると、汗や泥の滲んだグラブと所々赤黒い染みのついた硬球を手に、一徹より先に長屋の外へと出た。
周りには何ひとつ高い建物のない、同じような造りの長屋が並ぶ町内。
今日は空気が澄んでいるのかやたらに夜空に輝く星々が綺麗に見える、そんな晩。
飛雄馬はそのひとつひとつを見上げ、大きく息を吸うと、少し離れた先でキャッチャーミットを構えた父の手元目掛け、掲げた腕を振り抜いた。