誓約
誓約 また、うなされているな、と飛雄馬は深夜、隣で眠る親友・伴の呻き声で目を覚ます。
星、星としきりに名を呼びながら何かを探るよう、はたまた手繰り寄せるように伸ばした腕で懸命に暗闇の中を掻いている。
親友がこの状態に陥った際、少し、上体を起こしてから飛雄馬は耳元でそっと囁く。
大丈夫だ、おれはここにいるぞ──と。
すると、親友はカッとどんぐり眼を開き、額にかいた汗を手の甲で拭ってから満面の笑みを浮かべ、よかった──と安堵の表情を見せるのが毎回の流れであった。もう、何度目になるだろうか。
飛雄馬が伴の屋敷に居候するようになって早、一週間が経とうとしている。
だと言うのに、伴は毎夜のごとく嫌な夢を見るらしかった。深夜になると隣で寝てもいいかと枕を抱き、おそるおそる訪ねてくる彼にやれやれと溜息混じりの承諾の言葉を返し、隣に枕を並べて眠る。
こうしていると、巨人の寮にいた頃を思い出すなと彼は笑い、飛雄馬も、そうだなと返したのが初日の晩。
飛雄馬は今夜も例の言葉を耳元で囁くべく、呻く彼に身を寄せる。
「…………」
「星、行くな……わしを置いて、ひとりにしないでくれ……」
まだ、昔のことを引きずっているのか。
中日にトレードされ、敵として戦ったあの日々のことを。おれは言ったはずだぞ、伴は伴の人生を歩めと。
おれの犠牲になることはない、と。
あれから何年経ったと思っているんだ。
「伴、大丈夫か」
「あっ!」
飛雄馬が呟くと、伴は弾かれたように体を起こし、びっしょりと汗に濡れた顔をこちらに向けた。
「また、例の夢を見たのか」
「う、うむ……すまんのう。朝、早いっちゅうのに」
ばつが悪そうに伴はぼやき、大きな体をしゅんと縮こまらせる。
「いや、おれは構わんが、伴も辛いだろう。毎晩これでは……」
「……なに、大丈夫じゃい。おやすみ、星」
「……どうしたら、その夢を見なくて済むんだろうか」
「え?」
今日に限って、飛雄馬は伴にそんな問いかけをしてみせた。いつもなら、おやすみと言い残し、布団に潜るのが定番であった。
伴もまさかの返答に驚いたか、素っ頓狂な声を上げ、大きな目を更に見開くようにして飛雄馬を見つめる。
「何か、おれにできることがあったら言ってほしい」
「なに、って……そのう……ええと……」
何やら伴がどもり、飛雄馬は首を傾げる。
何を躊躇しているのか、言いたいことがあるのならはっきり口にしたらいいだろう、の言葉を飲み込み、飛雄馬は伴からの言葉を待つ。
「…………」
「……しても、ええか?」
「なに?」
「えっ、と、その……ちゅーしても、ええかのう」
伴が発した一言ののち、一時の間を置いてから飛雄馬はぷっと吹き出すと、すまない、と謝罪してから、姿勢を正すと目を閉じた。
「わ、笑うな星よ、わしも恥ずかしいんじゃい」
一時の間ののち、衣擦れの音が静かな部屋に響いて、それから咳払いがひとつ。
伴の鼻息らしい冷たい風が顔にかかったかと思うと、頬に熱く大きな掌が触れた。
目を閉じているせいか、聞こえる音や触れる熱のひとつひとつが敏感に響いてくる。
星、と熱っぽい声で囁かれ、飛雄馬は体が火照ったことを自覚した。けれど、それを悟られぬよう、じっと押し黙ったまま伴の唇が触れるのを待つ。
それからややかさついた乾いた唇がそっと口元に触れたかと思うと、すぐさま離れていった。
「…………」
「無茶な頼みを聞いてくれてありがとう、星よ。早いところ眠るぞい。明日に差し支えるぞ」
これだけでいいのか?そう、尋ねてしまいたいのを堪え、飛雄馬は伴がしたように布団に横たわると目を閉じる。枕元に置いた目覚まし時計が時を刻む音がやたらと耳障りで眠れそうになく、飛雄馬はこちらに背を向けて眠っている伴を見やった。
いつもなら聞こえる大いびきもなく、恐らく彼も寝たふりをしているのは明らかである。
体は今も火照ったままで、目は時間が経つごとに冴えてきている。
再会した日に、寝床としていた山中の山小屋で肌を重ねたきり、巨人に返り咲くその日まで触れてくれるなと言ったのは他ならぬおれ自身。
ひとたび体を許せば伴のことだ、見境なく求めてくるに違いないし、伴には世話になっている手前、おれも断りきれないのはわかっている。
うなされる伴の手助けをしてやりたくてどうしたらいいなどと尋ねたのが甘かった。
しかし、あのままにしておけば伴も寝不足が祟り体調を崩すであろうし、おれの練習にも支障が出るに違いないのだ。
「ほ、星、すまん。わしは部屋に戻るわい……このままじゃと取り返しのつかんことをしてしまいそうでのう。ゆっくり眠ってくれえ」
「…………」
言うと、伴は体を起こし布団から抜け出る。
飛雄馬はその背に声をかけたい衝動に駆られたが、黙って彼を見送ることとした。
「おやすみ、星……」
「っ……」
廊下へと続く襖の開く音が辺りに響く。
「邪魔してすまんかったのう」
「伴、おれは構わんぞ。取り返しのつかないことになっても……」
伴から視線を逸らし、飛雄馬は自分に言い聞かせるように囁く。この一線を、伴が引いてくれた予防線を越えてはならないとわかっているのに。
何のために今まで互いを律してきたのか。
己の立てた誓いはたった一度の口付けで揺らいでしまうほどのものだったのか。
「……くっ、星よ。その言葉だけで今は十分じゃい。きっとこれから妙な夢は見なくなる。だから今はサンダーさんとの練習のことだけ考えておくんじゃい」
「伴……!」
伴が部屋を出ていくなり、襖が音を立てて閉まった。
飛雄馬は布団の中で大きな溜息を吐くと目元に腕を乗せ、目を閉じる。目覚まし時計は無慈悲に時を刻むばかりで、己を慰めてはくれない。
悶々とはしていたものの、いつの間にか眠っていたようであり時計は起きる時刻を告げ、飛雄馬は体を起こすと薄暗い中、身支度を済ませ、サンダーと共に伴の屋敷を出た。
そうして、再び屋敷に戻る頃には朝日が昇っており、顔を出した食卓には伴の屋敷の家政婦が拵えてくれた朝食が所狭しと並べられている。
が、伴の姿はそこにはなく、家政婦──おばさん曰く、今朝は早く家を出たとのことであった。
さもありなん、昨夜の一件のあと合わせる顔がないのはこちらも同じである。
飛雄馬は嬉しそうにおばさんの作ってくれたハム・エッグを平らげるサンダーを前に溜息を吐き、ちびちびと焼き魚に箸を付けた。
「ヒューマ、元気ナイ。ドウカシマシタカ」
そんな飛雄馬を見兼ねてか、独特の訛りでサンダーが尋ねた。
「坊っちゃんも何やら暗い顔をされてましてね。星さんと喧嘩でもしたんですかとお尋ねしましたら、違うと一蹴されましたが……」
気まずい、と飛雄馬は味噌汁を啜りつつ、なんと言ってこの場を切り抜けようかと思案するも、良い案は浮かばず、彼も連日、残業と接待で疲れているんでしょうと当たり障りのない言葉を吐いた。
「ヒューマモオ疲レナラ少シ練習、休ミマショウカ」
「いえ、おれは大丈夫です。アメリカから来てくださったサンダーさんにも、はたまた呼び寄せてくれた伴やおばさんにも迷惑はかけられませんから」
「星さん……迷惑なんて思っていませんよ。むしろ感謝しています。星さんが来てくださったおかげで坊っちゃんは仕事にも毎日欠かさず行くようになられましたし、帰りも今までは午前様ばかりで心配していたんです。でも、星さんと一緒に住むようになって、表情も明るくなられて……」
「ヒューマ、体壊スト良クナイ。休養モトテモ大事」
「……ありがとうございます」
ごちそうさまでした、そう言って箸を置き、飛雄馬は再び練習の始まる時刻まで休むべく伴の与えてくれた一室に戻ると、畳の上にごろりと横になった。
何の不満が、ここにあると言うのだ。
清潔な寝床も衣服も、食事だって三食、申し分ないほどの量がここには用意されている。
伴の求めにくらい応じてやればいいのだ。
それを巨人に返り咲くまではなどと言い訳をして、伴を遠ざけている。
今夜、伴が訪ねてきてくれたら──いや、こちらから訪ねてみることにしよう。おれが部屋に顔を出したら伴はどんな顔をするだろうか。
クス、と飛雄馬は笑みを溢し、体を起こしてから部屋を出ると、縁側から良く晴れた青空を見上げた。
もうすぐ、暑い夏がやってくる。