左腕
左腕 待ちたまえ。
そう言って、花形は今し方すれ違った男の手を取る。YGマークの野球帽を目深にかぶり、サングラスをかけた彼だが、心なしかそのレンズの奥で表情が陰ったように花形には見えた。
「何か?」
彼が問う。
「きみはもしや、巨人の星──かつて巨人にいた星飛雄馬ではないかね」
人々が盛んに行き交う街の中心で、花形は手を握った彼に対し、そんな言葉を投げかけた。
星飛雄馬?巨人の?
まさかぁ。
花形の発した言葉が耳に入ったらしき通行人が数人、振り返るような仕草を見せたが、それきり前を向くと人混みに紛れ消えていってしまう。
人の噂も75日とはよく言ったもので、あの日完全試合を成し遂げて以来、姿を消してしまった巨人のエース・星飛雄馬のことを数ヶ月は新聞各社がこぞって記事にしたし、ニュースでコメンテーターたちがしたり顔で今彼は何をしている、どこにいると予想してみせたが、何ひとつ有力な手がかりもないままに、いつしか話題にも上がらなくなった。
人々の関心など、そんなものだ。
「……人違いじゃないか」
サングラスのレンズ越しに花形を見つめ、青年は冷ややかにそう言い放つ。
「なぜ、嘘をつく。ぼくに見つかると何か不都合でも」
「手を離してくれ」
「断る。きみが自分のことを星飛雄馬と認めるまではね」
「…………」
彼の手を握る指の力を強め、花形は真っ直ぐに正面に立つ青年の顔を見据える。
花形が握るは、青年の左手であった。
星飛雄馬の左手は、あの針の穴を通すほどのコントロールを誇ると言われた彼の腕は、長年酷使を続けたことにより最早、再起不能の状態である──。
花形自身、人づてに聞いた噂ではあったが、今現在、こうして見る限りでは特に遜色なく思える腕も、青年はやはり握られたことで痛みを覚えるのか、辛うじて感情の読み取れる口元を不快に歪め、その頬に汗を伝わらせている。
これで、人違いと言うには些か無理がある。
「医者には診てもらったのかい」
「くっ……」
「ぼくの知り合いに腕のいい整形外科医がいる。ついてきたまえよ」
「……いらん。今更そんなことをしてどうなる。しつこいぞ」
「元通りとはいかんかもしれんが、ついてくる価値はあると思うがね」
ニッ、と花形は笑うと、人混みを掻き分け、国道を走るタクシーを1台、停車させた。

◆◇◆◇

飛雄馬は促されるままにタクシーの後部座席に乗り込むと、続けて隣に乗り込んできた花形から距離を取るように、ドア側にやや身を寄せる。
左手は、やはりうまく動かない。
飛雄馬は左手に右手を添えると、そのまま腕組みの体勢を取った。
そうして、車窓から街を行き交う人々を眺めながら、ここ数年のことを回想する。
──あれから医者を何件か回ってみたものの、レントゲンを見るなりうちでは手の施しようがないと誰も彼もが匙を投げたこの腕。
日雇いの仕事をやろうにも、力仕事はろくにできず、現役時代の僅かな蓄えを消費する日々。
そんな日を、どれくらい過ごしただろうか。
指1本動かすこともままならない左手を抱え、放浪する日々。
心優しい人々の親切に縋り、今日まで生きながらえてきたのだ。
「その手では食事をすることもままならなかったのではないかね」
「…………」
「医者にかかる気はなかったのかい」
「数件、病院を回ってみたがどこもうちでは手に負えんと追い返された」
「…………」
花形の憐れむような視線が飛雄馬の肌を刺す。
まさかあなたに、そんな目を向けられるようになるとはね、と飛雄馬は苦笑し、それなりに苦労はあったが、何とかやれているさと答えた。
「ずいぶん、痩せたのではないかね」
「気のせいさ」
飛雄馬はそう言うと、会話を切り上げる。
しばらく、タクシーに揺られていると、もう日も落ちかけ、早いところなら店仕舞をしようかという時分になったにも関わらず、未だ中に入る人のある整形外科の看板が立つ、洋風の2階建てらしき建物の前に到着し、飛雄馬は再び、促されるままに地面に降り立った。
「まだ何か?」
タクシーが走り去ったにも関わらず、その場に立ちすくんだままの飛雄馬を咎め、花形が語気鋭く尋ねた。
「好意はありがたいが、持ち合わせが……」
「……心配には及ばんよ」
花形に腕を取られ、飛雄馬は半ば強引に院内へと連れ込まれる。
予想に反して中に人はそうおらず、受付の若い看護婦に面食らったものの、花形が対応を買って出てくれ、飛雄馬は大人しく入ってすぐのところにある待合室の椅子に腰掛けた。
すると、すぐに名を呼ばれ、飛雄馬は驚き、弾かれたように未だ受付で話をしている花形を見遣ったが、行きたまえとでも言うように目配せされたもので、渋々診察室へと入った。
「ははは、花形くんから話は伺ったよ。なに、待合室で待っているのは湿布やら薬を貰いに来ているだけだから気にしなくてもいい。とりあえず、レントゲンを撮らせてもらってもいいかね」
花形の知り合いというから、どんな医者が出てくるかと思ったが、人当たりのいい口髭を蓄えた銀縁眼鏡の似合う50代くらいの男性医師が優しく出迎えてくれ、飛雄馬はホッとそこで緊張を解した。
それから、看護婦に指示を受け、レントゲン室に入ると、左腕全体を肩から指にかけて撮影してもらってから再び診察室へと入った。
「う〜ん」
出来上がったレントゲンフィルムを前に、医師が唸る。
「できる限りのことはやってみるがね、元通りとまではいかんかもしれん。それでもいいかね」
「────!」
「お願いします、先生」
まさかの言葉に驚き、声を出すこともままならなかった飛雄馬だったが、いつの間に診察室へ入ったのか隣に立ち、有無を言わせずそう答えた花形を見上げ、唇を強く引き結んだ。
「うん、わかった。それでは明日、改めて説明をさせて貰えればと思うが、およそ1週間程度はここに入院してもらうことになる。それで、切れた神経と筋を繋ぎ合わせる手術をやることになるが────」
飛雄馬は医師の説明を、どこか夢見心地で聞いている。まさかこんなことが、現実にあるなんて、と。 もう2度と、動くことのないと思っていた腕や指が、動くようになるかもしれない。
「ええ、はい。それで──」
医師の話を聞きながら相槌を打つ花形の横顔を見つめ、飛雄馬は奥歯を噛む。
なぜ、この男はここまでしてくれる?
今や花形さんの妻となったねえちゃん──その弟は自分の身内同然とでも言うのだろうか。
ありがたくはあるが、そこまでしてもらう理由も義理もおれにはない。
ここまでしてもらって、おれは花形さんに何を返せると言うんだ。
「それでは…………飛雄馬くん、部屋に行こう。明日はきみも聞いたと思うが、10時には手術室に入ることになる。よって、朝食抜きだ」
「…………」
飛雄馬、くん、と来たか。
何とも、花形さん自身も言い慣れぬであろうし、聞き慣れぬ呼び名だ。
しかし、不思議と不快に感じることはない。
飛雄馬は診察室を出ると、案内するという看護婦の後を追うようにして玄関そばの階段を上がり、個室だという部屋の中に入った。
部屋の明かりをつけ、この病院、昨年建て直したばかりで綺麗なんですよと誇らしげに言ってのけた看護婦に会釈し、その後ろ姿を見送った。
「あの、花形さん、おれ」
「何も言わんでくれたまえよ、飛雄馬くん。黙ってぼくの好意を受け取ってほしい」
「…………」
まあ、横になりたまえよと花形に促され、飛雄馬は動かぬ左手を庇うようにして病室のベッドに横になる。
と、花形が病室の壁沿いに立てかけられていたパイプ椅子を持ち出してきて、その場に腰掛けたではないか。
てっきり、そのまま帰るものだと思っていた飛雄馬は──花形さんや先生には悪いが、このまま病室を抜け出そうと思っていた目論見が外れ──彼に背を向けるよう寝返りを打った。
「きみのことだ、また抜け出すだろうと思ってね」
救急搬送された病院で、見舞い客が途切れたのを見計らい、そのまま姿をくらませたあの日のことを、花形は言っているのだ。
そうか、こうして病院で、花形さんに見下されるのも2回目かと飛雄馬はそのまま目を閉じる。
「ねえちゃんに、連絡くらいしたらどうです。心配しているに違いない」
「きみが気にすることではない。ゆっくり休みたまえ。明日の手術に障る」
「…………」
花形が席を立ち、部屋の明かりを消す。
飛雄馬は夜を迎え、闇に包まれた暗い部屋の中で何度か瞬きを繰り返したのち、ふっと意識を手放した。

◇◆◇◆
花形はパイプ椅子に深く座り、背もたれに背を預けると足を組む。
まさかこうも早く寝入るとは。
すうすうと寝息を立てて眠る飛雄馬の気配を感じつつ、腕を組むと花形もまた目を閉じる。
病室に置かれた秒針の音がやたらに耳につく。
しかし、これくらいの方が眠らずに済む。
──今日、あの場を歩いていたのはまったく幸運である。
普段はもっぱら車移動が多く、街中を歩くことなどほとんどないにも関わらず、今日に限って、なんの気まぐれか役員会の帰りにふらりと人込みに紛れた。
野球を辞めてからと言うもの、熱中し、打ち込めることなど皆無に等しく、淡々と仕事をこなし、良い夫を演じることに疲れたというのもあったのかもしれない。
行き交う人々の群れの織り成す、何の変哲もないくだらぬ話を、まるで背景音楽のようにして聴きながら無心になりたかったのかもしれぬ。
そこですれ違った、懐かしい感覚に、ふと足が止まり、振り返るに至った。
ぼくの血を、たぎらせるあの感覚を、あの存在を、誰が忘れるものか。
「……う、うぐっ、……」
ビク!と花形は突然、大人しく眠っているとばかり思っていた飛雄馬が呻き始めたために目を開け、席を立つ。
「飛雄馬くん?」
「て……手がっ、腕……」
「…………」
腕?左腕のことか、と花形は暗い部屋の中で空を切る飛雄馬の左手をほぼ手探りで見つけ出すと、それを握り、もう一方の手を添える。
冷たい。しかし、その掌はびっしょりと汗に濡れている。
「…………」
何か、縋れるものがあったお陰で落ち着いたか、飛雄馬はそれきり声を上げることなく、再び規則正しく寝息を立て始めた。
花形はふと、目星をつけた位置に蹴りの要領で足を差し出し、パイプ椅子の脚に靴の爪先を引っ掛けると引き寄せたそれに座る。
まるで、あの日と逆。
大リーグボール一号を打ち果たし、全身をボロボロにしたぼくの手を優しく握ってくれた、あの夏の夜のことを、ぼくはまるで昨日のことのように思い出せると言うのに。
また球場で会おうときみは言ってくれたじゃないか。
その内に、空が白み始め、朝が来たことを花形に知らせた。
花形は握っていた手を離すと、目を閉じ、再び足を組む。
そのまま眠りこそしなかったが、項垂れたまま花形は口を噤んでいた。

◆◇◆◇

朝か、と飛雄馬は目を開け、辺りを見回す。
見上げる天井は陽の光を受け、明るく輝いており、カーテンの閉まったままの窓の外からは雀の鳴き声がひっきりなしに聞こえてくる。
飛雄馬はぼうっと己の置かれた状況を思い出しつつ、しばし目を瞬かせた。
確か昨日、花形さんに出会って……。
「まだ早い。もう少し眠っていたまえ」
「は……」
ふいにかけられた声に驚き、飛雄馬が右手を使い体を起こすと、昨日出会ったままの姿の花形がパイプ椅子に座っており、ニコリと微笑んできたではないか。
まさか、一晩中、ずっと?
飛雄馬は花形から視線を逸らすと、一旦、着替えに戻ったらどうですかと小さな声で囁いた。
「いずれ、そうさせてもらうつもりだが今はきみのことが心配だ」
「…………」
一瞬の沈黙ののち、部屋の扉がノックされ、飛雄馬はハッ!とそちらを見遣ると、どうぞと入室を許可する。
中に入ってきたのは昨日、診察してくれた医師と少し恰幅のいい看護婦長と名乗る女性のふたりであった。
ふたりは今日の手術の詳細について事細かに説明をしてくれ、今から昨日できなかった分の検査に行くということも教えてくれた。
はぁ、と飛雄馬は流されるままにベッドから起き上がると、看護婦に連れられ、そのまま部屋を出る。
部屋に残ったままの花形と医師のことが少し、気がかりであったが、しゃべり好きらしい看護婦長に矢継ぎ早に話しかけられ、いつの間にかそのことも忘れてしまっていた。
そうして、採血等の検査を終え、部屋に戻ってきた頃には花形の姿はなく、飛雄馬は自分がこの瞬間、ホッとしたことに罪悪感を覚えた。
そこからは病院着に着替えたり、点滴の針を腕に入れたりと忙しなく、あっという間に手術室に入る時間を迎えた。
医師は昨日と同じ笑顔で、精一杯やってみますと言ってくれたが、果たして、そう上手くいくものだろうかと飛雄馬は一抹の不安を抱えながらも、はい、と返事をし、まるで棒きれのようになってしまっている自分の左腕を見下ろす。
と、手術室にいる看護婦や麻酔医たちは飛雄馬に安心する言葉をかけてくれつつ、テキパキと準備を整えていく。
そうして、飛雄馬は点滴から注入された麻酔により、意識を手放すことになる。

ハッ!と飛雄馬が気づいたときには朝と同じ天井が目の前にあって、変わっていることと言えば室内がぼんやりと薄暗くなっていることくらいか。
「……今、先生を呼ぶよ」
「は、花形さん……」
飛雄馬はぼんやりと虚ろな瞳に映る花形の顔と声に安堵したか、再び眠りについた。

◇◆◇◆

花形は飛雄馬の眠るベッドの枕元にあるナースコールを押しかけたものの、その手はボタンを押すことなく膝の上に収まった。
「…………」
帰宅して早々に明子にどこに行っていたのと問われ、彼女を巻くのに少々時間を要した。
シャワーで汗を流してすぐ、また出てくると言ったとき、寂しそうな顔をしていたが、それは致し方ないことだし、いずれこのことも話す日が来るだろう。
……先生は、切れた神経や筋を元通り繋ぎ合わせることはできたが、あとは飛雄馬くんの努力次第と言っていたか。断裂してから年月が経っているために癒着があったりと予想外の事態が発生し、時間はかかったが手術は成功と言っていい、と。
飛雄馬くんは、彼は、幾多の困難に見舞われ、挫折を経験しようともその都度不死鳥のごとく立ち上がってきた。
ならば、きっと大丈夫であろう。
花形は目を閉じ、自分も少し仮眠を取ろうかとしたところに、今まで静かに眠っていた彼が急に呻き声を上げ始めたために、慌てて席を立つ。
「う、ぅう……とうちゃん……とうちゃん。もう、もうやめて……腕が、うでがいたい……」
飛雄馬が呻きながら包帯を幾重にも巻かれた腕、その指でベッドのマットレスを掻き毟る様を見つめ、花形は一瞬、呆然と立ちすくんだが、ふと、処方された鎮痛薬のことを思い出す。
「もうなげられない……いたいよ、とうちゃん……!」
ステンレスのピッチャーからコップに汲んだ水を口に含んでから花形は鎮痛薬の封を開け、処方どおりに錠剤を口の中に放り込み、そのままうなされる飛雄馬の唇に己のそれを押し付けた。
ゴクリ、と飛雄馬は喉を鳴らし、錠剤と共に水を飲み下す。
すると、よほどあの鎮痛薬には速効性があったのか、それとも一過性のものであったのか、飛雄馬の声はすぐに止み、再び、規則正しい寝息を立てるばかりとなった。
未だに、幼い頃の夢を見るのか、飛雄馬くんは──。
花形はしばらく、飛雄馬の寝顔を見つめていたが、一度廊下に出てから事の詳細をナースステーションにいる看護婦らに伝えに向かう。
彼女らは話を聞くなり、あとは私達が見ていますからとそう言ってくれたが、花形はそうはいきませんから、とだけ返すと、部屋へと戻った。
相変わらず、飛雄馬は寝入ったままで、花形はその安らかな寝顔にフッ、と笑みを溢す。
誰が、この状況を想像しただろう。
ぼくは、ずっときみと野球を続けていくものだと思っていたのに。
皆、きみのことを心配しているし、行方を探し続けているというのに、ぼくは誰にもこのことを打ち明けることなく、この現状に酔っている。
花形は飛雄馬の枕元まで歩み寄ると、額に貼り付いた前髪を指で流してやり、飛雄馬くん、と小さな声で名前を呼ぶ。
「…………」
むろん、返事はなく、長いまつげが呼吸のたびに上下するばかりである。
花形はふと、身を屈め、もう一度飛雄馬の唇に口付けを落とすと、椅子に腰を下ろし、持ち寄った本を枕元の読書灯で読むに至った。
そうして、あと数ページで終わると言う頃、飛雄馬がぼうっと目を開け、花形さん?と呼んできたために、花形は読みかけの本を閉じ合わせた。
「気がついたかい」
「手術は……おわったのか?」
「ああ、大成功だそうだよ。無事、断裂した箇所も繋ぎ合わせられたそうだ」
先生を呼ぼうか?の問い飛雄馬は首を振り、体の脇に置かれた左手の指を恐る恐る動かすのが花形の目に入った。
「…………」
「明日からリハビリだそうだ。フフ、辛かろうがきみならやり遂げると信じているさ。それに、食事が届いているから、一度先生に診てもらってから食べようじゃないか」
「花形さん……ありがとう。なんとお礼を言っていいか」
「…………」
花形は答えぬままにナースコールを押し、飛雄馬が目を覚ましたことと、先生を呼んでほしいことを告げた。
すると、直ぐ様、手術を担当した医師が駆けつけてくれ、飛雄馬に改めて花形が教えてくれたとおりのことを話し、明日からしばらくリハビリにあたる必要があることを説明した。
花形は医師に深々と頭を下げ、礼を言うと、去っていく彼を見送り、部屋に運ばれてきていた夕飯をサイドテーブルに乗せてやる。
「花形さんは、食べないのか」
「ぼくのことは気にしないでくれたまえよ。食事くらい済ませてきたさ」
「…………」
花形は無言で夕飯を口に運ぶ飛雄馬の姿を、黙って見つめていた。

◆◇◆◇

花形はそのまま部屋に泊まり、朝になるとすぐ部屋を出て行った。
おれはと言うと、日中、眠りすぎていたせいかそれから一睡もできず、朝を迎えてしまった。
花形はねえちゃんや伴、左門さんの近況を眠れぬおれを退屈させぬようにかそれぞれ語ってくれた。
花形さんは、ちゃんと眠れているのだろうか。
昼間は来れないと言っていたが、仕事に支障はないのだろうか。
飛雄馬が運ばれてきた朝食を食べ終え、渡されたテレビカードで何気なくニュース番組を眺めていると、何やら初めて目にする医師とも看護師とも違う若い青年が部屋を訪ねてきて、今からリハビリを行うから、ついてきてほしいとそんなことを言った。
固まったままの左腕の健を伸ばしたり、指の動きを滑らかにするものらしいが、果たして、この手は再び動き出すのだろうかと不安が残る。
しかして、そのリハビリを行ってくれた先生のおかげで、固まった筋や健を解すマッサージとやらはひどく痛みを伴うものであったが、箸を手にし、固く小さなものを抓むことはゆっくりと時間をかければ行えるまでになった。
普通の人はまず、固まった部位を解すことに何日もかかるらしいが、おれの場合はその過程をいくつか飛ばしているそうだ。
飛雄馬が無理をしすぎたせいか痛み始めた左腕をさすりつつ、病室に戻ると、すでに花形が到着しており、部屋の前で待っていた。
「おかえり、飛雄馬くん」
「…………」
花形が手にしている花束に気付いて、飛雄馬はねえちゃんにでも差し上げたらどうです、とそんな皮肉を口にする。
「なに、花くらい贈らせてくれたまえ」
花形を部屋に招き、飛雄馬は痛み止めを服用する。
痛むのかい?と問われ、リハビリを頑張りすぎたようだと返し、部屋の中を満たす花の香りに顔を綻ばせた。
ナースステーションで借りたという花瓶に花形が花を活ける様子を見つめつつ、飛雄馬は、包帯の巻かれた腕をさする。
「ねえちゃんには、なんと?」
「仕事だと伝えてある。現にこの病院の先生はうちの取引先でね。とは言え、今は完全に私事の使用だがね」
ハハハと花形は珍しく声を上げて笑う。
「何が望みだ、花形さん」
「望み?」
笑みを顔から消し、花形が問うた。 「あなたが何の利点もなく、こんなことをしてくれるとは思えん」
「……疑り深いね、飛雄馬くんは。フフ、かつてのぼくたちの関係を考えれば無理もないことかもしれんが、昨日も言ったようにきみは大事な弟だ。身内が困っていれば手を貸すのは当たり前だと思うがね」
それとも。
花形がニヤリと口角を上げる。
「それとも?」
「きみを抱かせろと言えば、素直に従うかね」
「…………!!」
その言葉にぎょっとなり、飛雄馬は瞬きするのも忘れ、花形を大きく見開いた瞳で見据えた。
「フフフ、冗談。手負いのきみをどうにかしようとは思わんよ。機会があれば、いずれ」
「そんな機会、あってたまるか」
「……今は腕を治すことが先決だろう」
「…………」
「また来るよ。リハビリ、頑張りたまえ」
花形は花瓶を置くと、ニッと微笑んでから颯爽と部屋を出ていく。
飛雄馬はリハビリの先生に伝えられた指を握っては開くことをしばらく繰り返し、その内に運ばれてきた昼食を口に運ぶ。
そんなことを数日繰り返し、医師からも野球をすることは勧められんが、日常生活を送ることなら支障はないだろうのお墨付きを貰い、ようやく、明日、退院と言う日を迎える。
野球はできないのか、と言う寂しさはやはりあったが、今は腕が元通り動くことが何よりも嬉しい。
雨の日などは引き攣ることもしばらくはあるかもしれんとのことだったが、今現在、気になる様子もなく、飛雄馬は改めて毎日のように見舞いに来てくれた花形に礼を言った。
「…………」
「花形さん?」
言葉を発しない花形を訝しみ、飛雄馬は名を呼ぶ。
「できることならきみをこのまま連れ帰り、ぼくの会社で、しかるべきポストについてもらいたい。しかし、きみはそれを望まんだろう」
「花形さんらしくない……弱気な発言だな。ふふ、腕の礼もある。あなたがそうしろと言うのなら考えんでもないが」
退院日の前日、夕食を食べ終え、消灯までの数時間。ふたりは顔を見合わせ、そんな言葉を交わす。
「…………飛雄馬くん」
ベッドの上で病院着の格好で佇む飛雄馬を呼び、花形は椅子から立ち上がるなり傾けた顔を寄せる。
「…………」
飛雄馬は目を閉じると、花形の思いを受け止めてやり、あとは為すがままに彼の体の下に組み敷かれた。
「なぜ抵抗しない?いいのかね、こんなやり方できみを抱いてしまっても」
「嫌と言える立場じゃない。むしろこれで済むのなら大人しく抱かれもするが」
ベッドに乗り上げ、体の上に跨がってきた花形を飛雄馬は仰ぎ見る。
「…………」
そうして、再び、同じようにして押し当てられた唇の熱さに身を震わせ、飛雄馬は背中を反らす。
ゆっくりと首筋を滑り、薄い皮膚を吸い上げつつ下ってくる花形の吐息があまりに熱っぽくて、それでいて悲しげで、飛雄馬は奥歯を噛む。
彼は、おれに何をぶつけるつもりなのか。
単なる肉欲ではない。いや、そう、思い込みたいのはおれの方?
病院着の、腰の辺りで結ばれている紐を花形が解き、中に手を差し入れてくる。
そろり、そろりとまるで壊れ物を触るように指先を這わせてくるその感覚がくすぐったくて、飛雄馬は思わず声を上げた。
ちゅ、とこれ見よがしに音を立て、首筋から胸元を吸い上げる花形の唇が熱くて、胸の突起がぷくりと膨らむのがわかる。
そうでなくとも、下着の中はすでに張り詰めつつある。
と、唾液に濡れた柔らかな舌が、突起の上をずるりと滑って、飛雄馬は、あぁっ!と鼻がかった声を上げた。
ちゅうっとそのまま強くそこを吸い上げられて、舌先で嬲られる。
「あ、ぅ、うっ…………!」
かと思えば、下着の中に手が滑り込んできて、そのまま下半身を露わにされる。
「足を開いて。フフ、そう……話がわかるね」
両足で花形の体を挟み込むような体勢を取り、飛雄馬はごくりと喉を鳴らした。
舐められ、吸われた突起は淡い痛みをそこに残したまま、飛雄馬の腹の奥をぞくぞくと疼かせる。
花形が指を口に含み、唾液をそこに纏わせてから尻に触れるのを飛雄馬は顔を逸らし、直視しないようにした。
花形の長い指が腹の中を行き来し、入り口を押し広げたかと思うと、再び奥へと入り込む。
その度に、飛雄馬の半立ちの男根は震え、その白い腹に先走りを滴らせる。
「……声は抑えてくれるとありがたいがね」
ぎしっ、と花形はベッドを軋ませ、飛雄馬の尻に己のそれを押し当てると力強く腰を叩いた。
「う、っ……!!」
腹の中に強引に押し入ってきた花形の圧に、飛雄馬は呻いて、顔に苦痛の色を滲ませる。
外ではまだ、消灯前と言うこともあり、看護婦が忙しなく廊下を行き来する足音や、会話を繰り広げる様子が耳に入って来る。
花形は、飛雄馬の体の脇にそれぞれ手をついて、ゆっくり腰を引くと、奥深くへと己を飲み込ませていく。
「あ、ぁ……う、」
「ゆっくり、慣らそうじゃないか。痛くさせてしまっては意味がない」
中を浅く突かれて、飛雄馬は白い喉を晒すようにして体を反らす。
「ふ……っ、あぁっ」
「それとも、こんな子供騙しでは物足りないかな」
腰を回し、花形に腹の中を掻き回されて、飛雄馬は喉を引き攣らせた。
左腕が火照る。ああ、薬を飲まなければ。
それなのにおれは、花形との行為に酔いしれてしまっている。
「ん、んっ……」
花形を締め上げ、飛雄馬は絶頂を迎えると彼の腕へと縋った。
全身にどっと汗が吹き出し、瞳は涙に濡れている。
けれども、花形は休みを与えてくれるでもなく、絶頂の余韻に震える飛雄馬の足を掴むと、己を深く飲み込ませるように握った膝を彼の腹へと押し付けた。
そのまま花形はぎしぎしとベッドを揺らし、飛雄馬の中を擦り上げ、身を屈めると体を密着させる。
そうして、花形に深い口付けを与えられながら、飛雄馬は腹の中に出された熱さに身をよじった。

◇◆◇◆

「お世話になりました」
病院入口で飛雄馬は頭を下げ、医師や看護婦らに見送られながら花形の用意してくれた車の中に乗り込む。
「後楽園球場の近くでいいかい。今日は試合もないし、まだ時間も早い。人の出入りもそうないだろう」
「ええ」
車の中から、その姿と建物との距離が開き、見えなくなるまで背後を振り返っていた飛雄馬だったが、花形にそう言われ、前を向く。
「何かあったら、連絡してくるといい」
到着した先で、花形から別れ際に渡された名刺を受け取って、飛雄馬は再び、お世話になりましたと深々と頭を下げた。
「……またいつか、会う日が来るだろう」
「来ないことを願いたい」
ふっ、と互いに顔を見合わせ、笑ってから背を向け、歩き出す飛雄馬をしばらく、花形は見つめていたが、その内に車を方向転換させ、車道へと出た。
まだ陽の昇りきらない、涼しげな朝のこと。
花形のおかげで、完全回復とまではいかずとも、バットを握ることができるまでになった飛雄馬が──草野球で代打率100%を誇る巨人帽をかぶった怪しげな男と言われ、巷を騒がすようになる、ほんの数年前の、出来事である───。