誘い
誘い 球場から出た飛雄馬はふいに呼び止められ、足をぴたりと止めた。
「突然呼び止めてすまない。伴くんからきみを自宅まで連れてきてほしいと言われていてね」
「伴から?」
今し方、球場で試合を行ったばかりの彼──花形からそう言われ、飛雄馬は眉根を寄せる。
ユニフォームを詰めた鞄を手にし、目の前に立つ花形を飛雄馬は見つめ、なぜ花形さんに?と抱いた疑問をそのまま口に出す。
「昨晩、仕事で彼に会って、そう言われたものでね。ぼくも直接寮に電話をするべきだと忠告はしたのだが」
「…………」
本当、だろうか。信じてよいものか。
嘘をついているようには見えないが、どうにも信用しかねる。今の試合だってそうだ。裏をかかれ、まんまと彼にとっての絶好球を放つ羽目となり、本塁打を放たれてしまった。言ってしまえば、今一番会いたくない人間が彼である。
「……ぼくが本塁打を打たなければ信用したかね」
ニッ、とこちらを揶揄するように微笑む花形が囁いた言葉に、飛雄馬は唇を引き結ぶと、彼から視線を逸らした。
「それはまったく関係ないことだ」
「ならばなぜためらうのかね。彼と痴話喧嘩でもしたのかい」
「…………」
花形を睨み、飛雄馬は奥歯を噛み締める。何が言いたいのだ彼は。さっさと帰ればいいものを。
伴が呼んでいることが事実としても、タクシーなりを拾えば良いことであって、わざわざ花形さんに送ってもらう必要はないのだ。
「乗りたまえ」
「断る。伴の屋敷にはひとりで行く。伝えてくれたことは礼を言うが、そこまでしてもらう必要はない」
「…………」
「伴には花形さんには二度と頼みごとをするなと伝えておく。あなたも早いところねえちゃんの待つ家に帰るといい」
そう、吐き捨てるや否や、飛雄馬は球場の正面に回ればまだタクシーも数台残っているに違いないと踏み、その場を離れるべく足早に歩み始める。
と、背後から腕を掴まれたばかりか、待ちたまえと静止の声が掛かった。
「まだ何か……っ、!」
振り向きざまに尋ねた飛雄馬だったが、握られた腕を勢い良く引かれ、体勢を崩したところを花形に抱きすくめられる。
「まだ話は終わっていない」
「誰かに見られたらどうするんだ、こんなことを……!」
花形に腰を抱かれた格好のまま、飛雄馬は声を荒らげる。しかして花形は動じることなく、にやりと得意気な笑みを浮かべると、あとはぼくたちの他に残ってはいないさ、と続けた。
「選手が皆帰ったあと、長島さんと何の話をしていたか知らんが──彼がきみをひとり残し、球場を出て行くのをぼくはこの目で見ている」
「明日の、試合のことで、話をしていただけだ、っ!」
「まあ、そうだろうね。大方、慰めでもしてもらっていたのだろう。気にするな、こういう日もある、とね」
「何が言いたい!本塁打を打っただけでは飽き足らず、更にからかってやろうとでも言うのか、花形さんともあろう人が」
「…………」
急に押し黙った花形が、ふいに顔を寄せてきて、飛雄馬は身を強張らせた。すると、何ですか、と尋ねようと開いた飛雄馬の口元に、花形がそっと唇を寄せたではないか。
「!」
腰を抱く花形の腕に力が籠もって、飛雄馬は逃れるべく身をよじる。が、空いた花形のもう一方の手が顎を掴み、その動きを封じた。
そうして次第に花形の指先が頬へと食い込んで、鈍い痛みを与えてきたかと思えば、口の中に彼の舌が滑り込んできて、飛雄馬は目をきつく閉じた。
それから一度離した唇をゆるく啄むと、花形は再び、深い口付けを飛雄馬へと与える。
顎を掴んでいた花形の手はいつの間にか外れ、もう一方の腕同様に飛雄馬の腰を抱いている。
飛雄馬もまた、我が身を抱く両腕を縋るように握って、口内を犯す舌に酔った。
時折、漏れる花形の熱い吐息が肌を粟立たせ、体の奥を火照らせる。
ふいにフフ、と漏れ出た花形の笑い声で飛雄馬は正気に返ると、彼の体を思いきり突き飛ばした。
そのまま花形から距離を取って、飛雄馬は口元を手で拭うと、涙の滲んだ瞳を目の前の彼へと向ける。
「ぼくはこれで失礼させてもらうよ飛雄馬くん。気をつけて」
「…………」
言うなり颯爽と身を翻し、愛車に乗り込む花形を追いかけることもできぬまま、飛雄馬は彼の操る外国製のそれが走り去っていく様を見つめていたが、完全に姿が見えなくなってからそろそろと球場正面に向かって歩き始めた。
案の定、正面側にはまだタクシーが数台止まっており、目についた車体の後部座席の窓を叩いて、伴の屋敷の住所を告げてから開けられたドアの先へと身を滑らせる。
「星さん、まだ残ってらしたんですか」
「……ええ、ちょっと、ありましてね」
「今日の試合は残念でしたねえ。まさか逆転されるとは思いもしませんでしたよ」
「油断禁物の四文字が今日ほど響いた日もありませんよ……」
なんて、他愛もない会話を交わしつつ、タクシーに揺られていると、伴の屋敷まではあっという間であり、飛雄馬は請求された運賃を支払うと、降り立った門の前にて来客用のインターフォンを押した。
背後では、飛雄馬を降ろしたタクシーが大通りに出るべく住宅街を駆け抜けて行く。
「はい」
「あのう、星ですが」
「ああ、星さん。坊っちゃん、宙太坊っちゃん。星さんですよ」
インターフォンに出たのは伴ではなく、屋敷の家政婦らしく、飛雄馬はようやく安堵し、全身の力を抜いた。重厚な門の向こうで屋敷玄関の引戸がけたたましい音を立て開かれ、木製のつっかけらしき足音が響いてから、門のかんぬきが外される気配がした。
「おう、星ぃ。どうしたんじゃ。いきなり訪ねてきて…………」
「…………!」
門を開け、満面の笑みを浮かべつつも、どこか怪訝な表情を浮かべた伴を前に飛雄馬は、全身の血の気が引いていくのを感じる。
「星?顔色が悪いぞい。花形に打たれたのがそんなにショックだったのか?と、とにかく、中に入るとええ」
「い、いや……結構。おれも疲れているらしい。急に訪ねてすまない……」
「せっかく来たんじゃし、な。おばさんも星に会えなくて寂しがっとったわい」
「………………」
招かれるがままに飛雄馬は伴の屋敷へと足を踏み入れる。後ろでは伴が門を閉じ、かんぬきをかける音が響いた。ふらふらと屋敷の玄関先まで歩んでから、そこに座り込み、飛雄馬は、どうした?と尋ねた伴の顔を見上げ、しばし、口ごもりはしたものの、何でもない、と言葉を濁し、靴を脱ぐ。
「変な、星じゃのう」
洗面台を借りてもいいかと伴の顔を見ることなく、飛雄馬は訊くと、足の震えを悟られぬようにして辿り着いた先にて顔を洗い、口を濯いだ。
そうして、見つめた洗面台の前に張られた鏡に映る己の顔色のあまりの悪さに苦笑し、ふふ、と力なく微笑むと、自分の間抜けぶりが今更おかしくて、ひとり、声を上げて笑った。