ねえちゃ〜ん、お〜い!ねえちゃ〜ん!
明子は自分を呼ぶ大きな声に顔を紅潮させつつ、繕い物をしていた手を止める。
すると、すぐ自宅の引き戸が勢い良く開かれ、そこから息せき切らした弟がひょっこりと顔を出すや否や、ねえちゃん!と再び明子を呼んだ。
「飛雄馬、あなた突然どうしたの?何かいいことでもあったの?」
半ば呆れつつも、明子は微笑を浮かべ、弟である飛雄馬にそう尋ねる。物心ついた頃から年相応の友人付き合いや遊びに興じることも出来ないまま硬球を握らされたばかりか、ここ数ヶ月は父に着用を命じられたギプスが軋む音を気味悪がられ、クラスメイトたちからもからかわれることが増えたんだ……と暗い顔をして語ってくれた弟が久しぶりに見せた笑顔。
明子は、うん、と頷く飛雄馬の体から聞こえる不気味な金属音に一瞬、眉をひそめたが、ねえさんに話してちょうだい、と強引に話を進めた。
しばらくは、ギプスのせいで食事も思うように摂れず、夜もまともに眠れなかった弟、飛雄馬。
みるみるうちに小柄だった体はもっと小さくなって、目には隈ができた。
姉である私が泣いて頼んでも、女は黙っていろの一点張りで何も聞いてくれなかったお父さん。
女に学問は必要はない、と行きたかった高校の話も聞いてくれなかったお父さん。
「あの、角の文具屋のところに桜の木があっただろ?それに蕾が二、三日前に付いてたと思ったら今日、帰るときに見たら咲いてたんだ。ねえちゃん、桜が好きだって言ってただろう」
ハッ、と明子は飛雄馬の弾んだ声で我に返ると、桜?と彼に聞き返す。
「もう、そんな季節なのね。早いわね」
「一緒に見に行こうよ、ねえちゃん。今ならとうちゃんもいないしさ」
「で、でも夕飯の支度が」
「そんなの後、後!おれも手伝うからさ」
飛雄馬に背中を押される形で、明子は足につっかけを引っ掛けるとそのまま手を引かれ走り出す。
「まっ、待って!飛雄馬、ねえさん、そんな速くは走れないわ」
「すぐだよ!もう目と鼻の先さ」
幼い弟に手を引かれ、町内を駆けることになろうとは、と明子は長屋住まいの顔見知りの住人らが不思議そうに、あるいは驚いた顔をしてこちらを見つめてくるのが何だか恥ずかしいような、弟の成長が誇らしいような、そんな気になって小さく笑んだ。
すると、飛雄馬の言ったとおりに桜の木までは距離にして数百メートルほどであった。
文具屋なんて、何年ぶりかしらと明子は乱れた呼吸を整えつつ、飛雄馬が、ほら、と指差した桜の木を見上げる。赤く色付いた蕾が枝の随所に見受けられ、その中には数にして片手の指で足りるほどではあったが、開花しているものもあって、明子は思わず薄い桃色をしたそれ、に見とれた。
「まあ……」
「昔、まだかあちゃんが元気だった頃、おんぶされて見に来た記憶が何となくあるんだ」
「そう、そうなのね……飛雄馬にも母さんの記憶があるのね……」
明子は自分もまた、子守半纏を着た母が弟を背負い、幼い己の手を引いてくれたことを思い出し、涙ぐむ。
「……ねえちゃん、おれ、頑張るから。とうちゃんの夢を叶えて、ねえちゃんにもきっと楽をさせてやるからさ」
「…………」
そう言って、明子は自分の手を握る飛雄馬の手をどうしても握り返せない。
小さいあなたが背負うことじゃないわ、その言葉は喉元まで出ているのに。
弟さえいなかったら、弟が我慢してくれたら……。
そんな負の感情が、頭の中で渦巻いては消えていく。
母さんは、弟を産んだことを後悔しているだろうか。
一度は野球を捨て、家族のために生きる道を選んだ父が、自分の夢を叶えてくれる男子が生まれたことで、再び狂い始めてしまったことを。
私は初めからいらない子だったんだ。
それでも私をねえちゃん、ねえちゃんと慕ってくれる弟。可愛くないと言えば嘘になる。
でも、ふとしたとき、私は嫌なことを考えてしまう。
「ごめんよ、ねえちゃん、急に連れ出したりして……でも、どうしても見せたくってさ」
「謝らないでちょうだい。ねえさん、とても嬉しかったわ……」
「よかった。ふふ……」
「…………」
嬉しさから顔を綻ばせる飛雄馬に、明子は帰りましょう、と声をかけ、握られた手を引く。
まめだらけの手の何と頼りなく、小さいことか。
明子は思わず、繋いだ手を握り返し、どうしたの?と訊いてきた飛雄馬に、帰ったら宿題済ませちゃいなさいね、と返すと、段々と沈んでいく太陽を見上げ、泣くのを堪えた。