策略
策略 「飛雄馬くん、ちょっと」
今後の試合展開について、長島監督と談笑しつつ球場の選手通用路を歩く飛雄馬に、背後からとある人物が声をかけてきた。
一瞬、聞こえなかったふりをしようかとも考えたが、飛雄馬は、すみません、長島さんと会釈し、隣を歩いていた彼と別れ、自分を呼んだ声の主の許へと走り寄る。そうして、目の前の男に、小声で何の用ですか、花形さん、と訊いた。
「相変わらず他人行儀だね、きみは」
「こんなところで呼ぶのはやめてくれ。着替えて外で待っていてくれたらいいじゃないか」
「先日もそう言って別れておいてきみはぼくを置いてさっさと帰ってしまったじゃないか」
「それは、その、急用を思い出して……」
「急用、ねえ……」
ヤクルトスワローズのユニフォームを身に纏い、背番号3を背負った花形──は、帽子を取ると目を細め、コンクリート製の壁を背に立つ飛雄馬の顔を覗き込むように身を屈め、顔を寄せると、フフッ、と何やら意味有りげな笑みを浮かべた。
それだけで飛雄馬のユニフォームとアンダーシャツを着込む背中には、じわりと嫌な汗が滲む。
「…………」
「嘘はよくないな、飛雄馬くん。正直に言いたまえ、ぼくには、義兄さんには会いたくないと」
「そ、そうじゃない……そうじゃなくて……」
飛雄馬は視線を右に左にと泳がせ、どうこの危機を切り抜けようかと思案を巡らす。
「……そうじゃないなら、何だと言うんだね」
花形の手に背中から腰にかけてを撫でさすられ、飛雄馬がギク、と体を強張らせたところで、そのまま体を抱き寄せられた。
「手を、離してくれ。誰かに見られでもしたらどうするんだ」
腰を抱く花形の腕を解こうと飛雄馬はその腕を掴む。 しかして、その見かけよりだいぶ筋肉質で、固く張りつめた腕の力が緩むことはなく、却って強く腰を抱き寄せられる羽目になって、飛雄馬は小さく呻いた。
「なに、誰も来ないさ。ベンチに最後まで残っていたのはきみと長島さんのふたりだけだっただろう。他の先輩らは一足先にロッカー室へと戻っている。ぼくはそこまで見計らってきみを追って来たからね」
「……そこまでして、おれに何を」
「ここまでしないときみとふたりきりでは話もできないからね」
「話?」
「そう、話さ。フフッ……目を閉じてごらん」
「目?」
目を閉じて、何を話すと言うのかこの人は。
また何か、よからぬことを考えているのではあるまいな。
花形が唐突に、脈絡なく口にした言葉に、飛雄馬は胸騒ぎのようなものを感じたが、二、三、目を瞬かせてから目を閉じ、唇を引き結んだ。
「…………」
「花形さ……っ、!」
時間にして一分も経ってはいないだろうが、視覚を遮断され、何の音沙汰もなく待たされるのは不安でもあり、不気味でもあった。
沈黙に耐えかね、口を開いた飛雄馬だったが、その薄く開いた唇を塞がれ、呼吸もままならない状態に陥ったことに驚き、思わず目を開ける。
すると目の前には、自分と同じく目を閉じた花形の顔があって、飛雄馬は己の唇を塞ぐものが、彼の唇であることを知った。
一体、これは、この状況は、何なのだ。
おれは、なぜ花形さんと、こんな──。
「あ、っ、…………」
唇を軽く啄まれて、飛雄馬は思わず高い声を漏らす。
その気恥ずかしさに頬を染めた飛雄馬の唇に、花形は再び唇を押し付けた。
体の表面温度が、今の一瞬で急激に上がったことに飛雄馬は閉じたまぶたの奥、その瞳に涙を滲ませる。
なんとはしたなく、そして情けないのか。
こんな腕ひとつ、振り解けないとは。
「嫌じゃない?」
「…………!」
唇を離し、花形がそう、飛雄馬に訊いた。
ハッ!と飛雄馬は目を開け、花形を睨む。
その瞳には涙が滲み、どこか不安げに揺れている。
「誰も来ないと言ったのに安心した?フフ……案外、好きなんだね、きみも」
「そんな、はずっ…………!」
「どうせ誰もいないんだ。ぼくを突き飛ばすでも張り倒すでもして逃げたらよかったじゃないか。それをしないのはどうして?そんなに気持ち良かったかい」
「…………」
飛雄馬は花形から視線を逸らし、俯く。
ハッタリだ、こんなの。
花形さんはいつもこうだ。
真面目に聞いてはだめだ。
「飛雄馬くんがぼくを避けるのも、のめり込むのが怖かったから。明子を裏切りたくはないとか何とか言っておきながら、その実、きみは……」
「い、っ、いい加減にしろ!誰がそんなこと、それは花形さんの、っ……妄想じゃないか!人に全部押し付けて、おれのせいにして……」
ふいに出された姉の名に、飛雄馬はカッとなり花形を睨むと、一気にまくし立てる。
ねえちゃんのことを思って、おれは花形さんとも上手く付き合っていきたいとそう思っているのに、この仕打ちはあんまりだ──と。
「ふぅん、きみの顔はそうは言っていないが」
「…………っ、」
花形の台詞を受け、飛雄馬が眉間に皺を寄せると、その拍子に目元に溜まっていた涙が頬を滑った。
「その目、完全に蕩けきって……フフフ……明子に対する優越感かい?それともこの後のことを期待した?」
「そ、んな……こと……」
目を伏せた飛雄馬だったが、顎先に指をかけられ、無理やり花形の顔と向き合う格好を取らされる。
「試合の後で昂っているのはぼくも同じさ飛雄馬くん。場所を変えよう」
「っ、やめろ!おれはもう花形さんの言いなりにはならないっ!!」
顎先を捉えていた花形の手を跳ね除け、飛雄馬は腰を抱く腕をも振り払うと、そのまま通路を駆け出す。
体が熱いのは、試合の後だからだ。
それ以外の理由なんて、ない。
そのまま飛雄馬はロッカー室に逃げ込むと、自分の荷物を入れたロッカーの戸を開け、ユニフォームから私服へと着替え始める。
もう誰ひとり残ってはいない、静かなロッカー室はどこか不気味でもある。
飛雄馬は急ぎ、私服を身に纏うと、着ていたユニフォームたちを無造作に鞄に押し込み、ファスナーを閉めると部屋を出るべく、来たときと同じように出入口の扉、そのドアノブに手をかけた。
すると、ドアノブがひとりでに回り、飛雄馬は息を呑み、体を硬直させたが、扉の向こうに立っていたのが、誰も残っていないか確認に来たらしき球場職員であったために、ほっと胸を撫で下ろした。
「まだいらしたんですか」
「えっ……ええ、ちょっと。すみません。今帰りますから」
「お気をつけて。明日も期待していますよ」
「ありがとう」
飛雄馬は安堵感からか表情を緩め、ロッカー室を出ると球場を出るべく、観客らが出入りする正面ではなく、人通りもあまりないいわゆる選手通用口へと回る。
ここにも花形さんがいるのではないか、と身構えたが、人の気配はなく、飛雄馬が心配性極まれりだな、と苦笑したところに、目の前で一台の車が止まった。
その車の運転手こそ、先程別れたばかりの彼──花形で、飛雄馬は自分の心臓が、一瞬、鼓動を止めたような感覚を覚える。
「さあ、行こう。明子も待っているよ」
運転席側の窓を開け、花形が囁いた。
「こ……断る。日を改めてくれ」
「いいのかい。飛雄馬くんはそれで」
「…………」
なぜ、花形さんはそんな尋ね方をする。
これじゃあ、おれのことを全部、見透かしているみたいじゃないか──いいや、違う。
おれは花形さんの言うとおりになんかならない。
「……明日は明子がいない」
「…………」
「おやすみ、飛雄馬くん」
ニッ、と花形は微笑むと、それ以上は何も言わず、飛雄馬の前から走り去る。
誰が、花形さんの思惑通りに動くものか。
明日、ねえちゃんがいないからどうだというのか。
飛雄馬は球場から主要道路に出て、脇目も振らず自宅のある方角へと夜の闇に紛れ消える花形の姿を、しばらく目で追っていたが、自分も急ぎ、寮に帰ろうとタクシーを捕まえるべく、大通りへと出た。

◆◇◆◇

そこから寮へと帰り、汗を流し部屋のベッドに寝転んだが、いつまで経っても寝つけず、気が付けば朝であった。寝たのか寝ていないのかわからぬ状態で日課となっている早朝ランニングを行い、汗を流してから朝食へとありつく。
寮の食堂で一緒になった先輩たちからは心ここにあらずな顔をしとるなとからかわれ、飛雄馬はそうですか、と笑ってごまかしはしたが、昨晩のことがいつまでも胸につかえていて、せっかくのオフ日だと言うのにこれでは休養しようにも、細々とした用事を済ませようにも集中できない。
義兄に──花形さんに、もう二度とあのような真似をするのはよせ、と諭すつもりで、飛雄馬は花形邸を訪れることにした。
そうと決まれば、外出着に着替え、寮長に外出の旨を伝え、タクシーに乗ろうと寮の敷地内から外へと出ふ。時間帯ゆえかタクシーはそう待つこともなく捕まり、等々力の、とまで口にしたはよかったが、自分が花形邸の住所を知らぬことに気付く。
こんなことなら花形さんに迎えに来てもらえば、いや、そんなことを頼めばまた調子付かせることになる、と飛雄馬は首を振り、ダメで元々とばかりに等々力の花形さんの家を頼む、と乗り込んだタクシーの運転手に頼んでみた。
あれだけ大きな屋敷と広大な敷地を持つ花形さんだ。 タクシーの運転手ならば知っているに違いない、と踏んでのことだったが、予想的中、運転手は、ああ、あそこね、と頷くと、すぐさま車を走らせてくれた。
飛雄馬はそれを聞き、ホッとしたことも事実だが、花形さんはそれほどまでに有名人なのだな、とどことなく恐ろしいものを感じ、鳥肌の浮いた腕をさすると、タクシーの後部座席に深く座り直す。
運転手は花形さんとどういうご関係で?と尋ねたあと、バックミラーで飛雄馬の顔を目の当たりにしたか、あっ!巨人の星!と声を裏返らせ、自分は巨人の星のファンであることを饒舌に語った。
最後は料金こそ値引きはしてくれたものの、サインまでねだられる始末で、飛雄馬は花形の屋敷を訪れる前から心身ともに疲れ果ててしまった。
タクシーを降りたのは、敷地入口の門の前であり、ここから屋敷まではまだだいぶ距離がある。
花形さんの車であれば、玄関先まで行けたのに、と飛雄馬はよからぬことを考えたが、敷地入口の門を開けると、そこに足を踏み入れ、一歩一歩歩み出した。
それにしても、この屋敷は広い。
玄関に到着するまで、歩いて三十分まではかからぬであろうが、良い運動にはなる。
専用の庭師でもいるのだろうか、敷地内の木々や花壇は枝が伸び放題というわけでもなく、花が枯れているということもなくいつも手入れが行き届いている。
ねえちゃんはとんだ家に嫁いだものだな──と飛雄馬はいらぬ心配をしつつ、ようやく辿り着いた玄関のチャイムを鳴らす。
と、待ち構えでもしていたのかすぐに扉が開き、屋敷の主人である花形が顔を出し、飛雄馬は、わざと顔を背けつつ、どうも、と言うだけに留めた。
「……呼んでくれたら迎えに出たと言うのに」
「…………」
そこまで、してもらう義理も理由もない。
飛雄馬は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、どうぞと中に促されたのを断り、もうこれきりにしてくれ、とそう、囁いた。
「何を?」
「何をじゃない。おれにちょっかいを出すのはやめてくれと言っている」
「なぜ?」
「おれがそんなに器用でないことは花形さんも知っているだろう。あなたは野球選手としての顔と私生活の顔とを使い分けるのには慣れているだろうが、おれはそうはいかない。それに、ねえちゃんの留守に乗じてこんな密会のように家を訪ねるのは気分が悪い」
「それを言いに来たのかい。わざわざ」
「……おれはねえちゃんの旦那として花形さんと仲良くしたいとは思っているが、それ以上のこと、はっ……!」
ふと気付けば、花形の顔が目と鼻の先にあって、飛雄馬は慌てて距離を取る。
フフフッ、と悪びれる様子なく微笑む花形を睨みつけ、飛雄馬は茶化さないでくれ!と声を張り上げた。
「茶化してはいないさ。フフ、わかった。約束しよう。もうきみとそういうことはしない」
「…………」
「とにかく、入りたまえ。せっかく来てくれたのだし」
「断る。それだけ約束してもらえたらいい。また球場で会おうじゃないか」
背を向け、来た道を引き返そうとする飛雄馬を呼び止め、花形はそれなら最後にひとつ、ぼくからのお願いを聞いてほしい、と言うなり、その顔に柔和な笑みを浮かべた。
「お願い?」
「ぼくも飛雄馬くんからの頼みごとを聞き入れただろう。きみもそうしてくれたまえ」
「…………」
これで終わるのなら、と飛雄馬は警戒心を緩め、花形の方に向き直ると、続きの言葉を待つ。
この期に及んで、この人は何を言うのか。
「ぼくともう一度だけ寝てくれないか」
「な、に……を、そんな、馬鹿なことをっ……!」
「…………」
引いていた昨夜の熱がぶり返したようで、飛雄馬は頬を染める。眉ひとつ動かさず、この男は、花形は……どうしてそんなことを平然と言ってしまえるのか。
「フフ、冗談さ。あまりにきみがうちに寄り付いてくれんので、つい、からかいたくなってね。誰かと一緒だとそれは賑やかで結構だが、たまには身内だけで話したいこともあるだろう」
「あ、う……」
「さあ、行きたまえ。来てくれてありがとう。明子にも伝えておくよ」
「……う、」
わからない。
この花形という男のことは、何ひとつわからない。
なぜ、ここまで来て何事もなかったかのように手を引いてしまえる?おれは、何のためにここに来た?
花形さんが、わかったと言ってくれたのなら、それで終わりでいいはずだろう。
それなのに、なぜこの足は動かない?
「来たまえ」
「…………!」
閉まりかけた扉の向こうで、低い声が響いた。
腹の奥が変に疼いて、飛雄馬は眉間に皺を寄せる。
「飛雄馬くん」
「っ……、!」
名前を呼ばれ、飛雄馬はふらりと開いた扉の向こうに身を滑らせた。
閉まる扉の音を背後で聞きつつ、飛雄馬は玄関先で花形にされるがままに身を委ねた。
玄関の扉を背にし、下半身を撫でられ、下着もスラックスも着けたままの状態で射精してしまい、新しいものをあげようと脱がされたその場で飛雄馬は花形に抱かれた。
体を押し付けた扉が自分の体温で次第に温まり、なまるぬくなるのを感じつつ、飛雄馬は中に出された花形の熱に軽く気を遣った。
そこから何度、場所を変え、休憩を挟みながらこの男と繋がっただろう。
飛雄馬の喉はとう枯れ、顔など涙なのか唾液なのか汗なのかわからない液体にまみれてしまっている。
水と飛雄馬が息も絶え絶えに喘げば、口移しにそれを飲まされて、再び絶頂に導かれた。
体を預けているベッドは汗に濡れ、冷たくなってしまっているが、その内にはそんなことも忘れてしまうほど飛雄馬は行為に酔いしれる。
飛雄馬がここに来て、もうどれくらいの時間が経ったであろうか。
寝室のテーブルの上、外して置いておいた腕時計を花形が見遣れば、間もなく日が暮れると言う頃合であった。足腰立たぬまでに行為に没頭した飛雄馬はベッドの上で身動きが取れず、目を閉じたまま回復するのを待つ。
頭はひどく痛み、腹の中にはまだ花形がいるような感覚があって、飛雄馬は汗に濡れた自分の腹を撫でる。
これで、良かったんだろうか。
考えようとすると頭が痛む。
今は何もわからない……。
いいや、果たして、本当にそうだろうか。
わからないふりを、決め込んでいるだけなのでは……。
「…………」
「今更、きみだけ逃げようだなんて卑怯じゃないか」
「え?」
飛雄馬は花形がぽつりと呟いた言葉がしっかりとは聞き取れず、訊き返した。
しかして花形はそれきり何も言ってはくれず、飛雄馬は目を閉じたまま深く息を吸う。
花形の纏う、人工的な香りが今は心地よく、飛雄馬は大きく息を吐いた。
ああ、これでようやく解放される。
花形さんはさっき、そう言っていた。
これでようやく、試合に集中できる……。
飛雄馬は、ふと、唇に触れた感触に驚き、目を見開いたが、それが身を寄せてきた花形と知ると口を開き、彼の舌を受け入れた。
そうして、彼の舌に自分のそれを絡ませると、花形の首にも自分の腕を回し、甘い声を漏らす。
フフ、と花形が微かに、笑ったような気がしたが、飛雄馬はそれを咎めることも尋ねることもせず、ただただ、流れのままに彼に身を任せ、その腰に自分の両足を絡ませた。