作文
作文 「あら、飛雄馬の将来の夢はプロ野球選手でしょう」
取り込んだ洗濯物を畳みながら、明子はちゃぶ台に置かれた原稿用紙を前に、鉛筆を持ったままなかなか書き出そうとしない弟の姿を前に苦笑する。
国語の授業で、将来の夢について書け、との宿題が出たと弟は帰宅するなり、そう教えてくれた。
「ねえちゃんはさ、何になりたかったの?大きくなったら」
今年、小学校に入学したばかりの弟に、そう尋ねられ、明子は、そうね、と言い淀むと、長屋の長押付近に飾られた実母の写真を見上げてから、お嫁さんかしら……とぽつりと溢した。
「お嫁さん?」
少し、怪訝な顔をした弟が、私の顔をじっと見つめる。
「ふふ、そうよ。素敵な男の人と結婚して、幸せな家庭を作るの。優しくて思いやりがあって、怒鳴ったりしない人……」
「ふぅん……」
「さあ、早いところ宿題を済ませちゃいなさい。もうすぐお父さんが帰ってくるわよ」
洗濯を繰り返し、くたびれ、ほつれや破れの見える自身の女性用下着を眺め、明子は大きな溜息をつく。
もう何年、この下着を身に着けているんだろう。
お母さんさえいてくれたら、なんて今まで何度思ったことだろう。ぎりぎりでやり繰りしている家計から新しい下着を買うお金なんて捻出できない。
「……ちゃん……ねえちゃん……」
……夢くらい、見てもバチは当たらない。
こんな生活から、抜け出せるのなら……。
「あっ!どっ、どうしたの?」
ふいに、弟が己を呼ぶ声で我に返り、明子は洗濯物を畳む手を止めると、何やら原稿用紙に向かい、文字を書き出した彼に視線を遣った。
「どうしたのさ、ぼうっとして……熱でもあるのかい」
「い、いえ……そんなことないわ。大丈夫よ」
「それならいいんだけど……ねえちゃんがいないとうちは回らないからさ」
「…………」
そうね、きっと、私はこのままここで一生を過ごすのだと思う。年老いた父の世話を甲斐甲斐しく行う孝行娘として、結婚することもなく……それが私の幸せなのよ。
「よし。書けた。ねえちゃん、何か手伝うことあるかい?おれでよければ手伝うよ」
「いいのよ。ゆっくり休んでいてちょうだい。父さんが帰ったらまた特訓があるんでしょう……」
元、巨人軍の三塁手だった父は弟を巨人の星にするために日々練習と言えば聞こえはいいが、虐待まがいの行為を強要させる。そんな父が、女の私に目をかけてくれたことが、未だかつてあっただろうか。
私は、奴隷と変わらない。
「そうかい?それじゃあお言葉に甘えて」
弟は、悪戯っぽく笑うと、畳の上にごろりと寝転がり、軽い寝息を立て始める。無理もない、早朝からのランニングの後に学校へ行き、帰宅後は父との投球練習。幼い弟には過酷すぎる。
明子は、寝入った弟を起こさぬように畳んだ洗濯物をタンスに仕舞い込み、夕食の準備をしようと考えつつ、ふと、ちゃぶ台の上に置かれた弟の原稿用紙に目が留まった。
プロ野球選手になりたいと辿々しいひらがなで書かれた彼なりの決意と希望に満ち溢れた文章。明子はそれが見ていられず、ぷいと顔を逸らすと、台所へと立つ。弟は、綺麗すぎる。世の中を知らなすぎる。世の中の、何パーセントの人間が、プロ野球選手になるという夢を叶えられると言うのだろう。
いいえ、それはきっと私も同じこと。
こんなに狭い長屋に押し込められていては、お嫁さんなんて夢のまた夢……。
明子は苦笑すると、米櫃から取り出した米を羽釜の中に適量、流し入れ、それを冷たい水道水で研ぐことを数回、繰り返した。父が帰る気配は、まだない。