最終戦
最終戦 星が、マウンド上で左腕を押さえて倒れるのを見た。
意識が朦朧とする中、萎えて棒のようになった足を引きずりながら懸命に走った。おれは打ったのだ。星の大リーグボール三号を。
滑り込むようにして手を着いたベース、舞い上がった砂埃に顔中がまみれる。
刹那、ほぼ同時にベースを踏んだまま戻ってきた球を捕った王さん見て塁審はアウトと宣言した。
しかし、それにおれが反発したために塁審はセーフと訂正し──中日側はピンチランナーを出すと叫び、川上監督はパーフェクト達成だとそれに反論した。
そこから、おれの記憶はしばらく途絶えた。

「星────!」
伴は目覚めるなり、親友の名を呼びつつ飛び起きた。パイプ椅子に腰掛け、じっと目を閉じていた中日の水原監督が飛び起きた伴に驚き、ガタン!と椅子を揺らす。
「ここは、監督、おれは……」
寝ていた場所が何やらベッドの上で、はたまた寮のそれでないことにも今更気付いて、伴はそこで初めて水原監督の存在に気付いた。
「……病院だよ。7回裏から逆立ちしていたのが効いたんだろう。あの後、気を失っとったんだ。念のため、救急車で病院に運んでもらったんだ」
「……あの後……星との一戦の後ですかい」
尋ねると、水原監督は頷き、判定はまだ出とらんが、と続けた。
「そう、ですかい。はは……腕っぷしだけが自慢のおれが失神するなんて前代未聞のことですわい。お恥ずかしい……それで、星は?左腕を押さえてぶっ倒れたような気がしたんじゃが……」
「いなくなった」
「え?」
肩を落とし、頭を抱えた伴は水原監督の言葉に顔を上げる。
それは、どういう──?尋ねるよりも前に、水原監督が淡々と語り出す。
星の左腕はもう、使い物にならんそうだ。
数日前、星の診察をし、レントゲンを撮ったという医師からあの試合のあとすぐに電話があってね。
何を馬鹿なことを──と一蹴したが、すぐにこちらに出向くと言われ、見せられた写真が、もう。
言いながら、監督はぎゅうっと自身のユニフォームの腿を握り締める。
「筋肉がボロボロになってしまっていた。あの球を、大リーグボール三号を一球、一球投げるたびに、星の左腕はその命をすり減らし続けていた。放つごとに悲鳴を上げたくなるほどの激痛が走っていたとの話だ。もう、彼は、野球は出来んよ」
「ば、馬鹿な……カントク……冗談はやめてくださらんかのう……星の左腕が、そんな」
星が、たった一人で編み出した魔球。
おれと一緒にまた、大リーグボール三号を作ろうと言ったとき、星は、お前は……。
「う、お、おおっ……」
頭を抱え、伴は吠えた。
何故気付かなかったのだろう。どうして気付いてやれなかったのだろう。
星がたった一人、その命と引き換えに大リーグボール三号を投げていたなんて。
星のためになるならと。
それならばと心を鬼にして、星一徹コーチの指導を仰ぎ、私情も思い出も何もかも心の奥底に封じ込めたというのに。
「……………」
水原監督は黙ったままだ。
伴はぼろぼろ、ぼろぼろととめどなく溢れる涙を拭うこともせず、頭を抱えたまま項垂れている。
「星も同じ病院に担ぎ込まれたんだが、一緒に救急車に乗り込み、付き添ってくれていた星くんと、試合観戦に来ていた花形くんにしばらく一人にしておいてくれ、と病室から出て行かせたのち、どこかへ消えてしまったそうだ」
「………そ、んな」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を上げた伴と水原監督は、ふいに病室の扉がノックされたために、ハッとそちらの方を見遣った。 すると、そこから顔を出したのはユニフォームの上からグラウンドジャケットを羽織っただけの星一徹であった。
「気が、付いたようじゃな」
「星くん……息子さんは」
扉を閉め、こちらに歩み寄って来つつ一徹は首を横に振る。
「ご苦労じゃったな、伴。ふふ、もう少しわしの読みが冴えておったらコミッショナーの判定など待たずとも──」
「星コーチ、いや、親父さん、あんた、星の腕のこと」
「ああ、血相を変えて飛び込んできた医者から全部聞いたわい。もう、野球は出来んそうじゃな」
どこか他人事のように言う一徹に、伴は一息に涙を拭うと食ってかかった。
「野球は出来ん?自分の息子じゃろう、星は!星が小さい頃から野球だけを教えて来たあんたが、その野球さえも星から奪おうと言うのか」
「伴!」
今にも殴りかからんばかりの剣幕でまくし立てる伴を諌めるように、水原監督が椅子から立ち上がったが、一徹が大丈夫だ、と彼を宥める。
「奪うも何も、結果にしか過ぎん。老いたる獅子と若き獅子の死闘の結果じゃ。一度敵となれば親子の縁など関係ない。師を超えてこそ一人前の男じゃ」
「巨人の星になれと、星からすべてを、何もかもを奪っておいて、親父さんはそれで満足じゃろう。だが、星の気持ちを、一度だって考えてやったことが、親父さんにはあるのか?満足か?これで」
「………ならば訊こう。何故、あんなに親友だ、一心同体の友だと豪語しておきながら飛雄馬の異変に今の今まで気付かなかった?監督から聞いたじゃろう。一球、一球投げるたびに飛雄馬の腕には激痛が走っていたと。それならば、その微妙な表情の変化等にもお前が言う親友と言うのなら、気付くのが当たり前ではないかのう」
言葉に詰まった伴から離れ、一徹は、「伴の目が覚めたのなら良かった、追って辞表は出す」とだけ水原監督へ言うなり、再び部屋を出て行った。
「伴、今はゆっくり休め。星も、きっとすぐ顔を出してくれるさ」
「おれは」
「え?」
「おれは、間違っとったんですかのう。星のためになるのなら、そう、思って」
「………ここだけの話としてくれんか」
ぽつり、水原監督が溢す。
自分は、詳しいことはよく分からんが、星くんのあの気質に晒され、幼少の頃より抑圧され、自分の好きなこと、やりたいことが何一つ出来なかった彼が、伴との一戦で左腕を壊し、野球が出来なくなった、ということはある意味では、彼を救ったということにはならんだろうか。
彼は、これから、自分の道を歩んでいこうとでも、考えているんじゃなかろうか。
「…………監督さん」
「人間、気持ちと言うものは口に出さんと分からんよ。星の左腕の異変も、痛みに耐えていたであろう表情も、誰も見抜いた人間はいなかった。伴が気負うことではない」
一徹とのやり取りで引っ込んでいた涙が再びこみ上げてきて、伴はそれが瞳から溢れぬように天井を仰いだ。
「……ゆっくり休め、伴、今は」
「お言葉に、甘えさせてもらいますわい……」
頷き、伴は自身に背を向け、去っていく水原監督の後ろ姿を見据える。
扉が閉まる音を聞いてから、伴は一人、星、星とうわ言のように繰り返しつつ涙を流す。
一体、お前はどこに行ってしまったと言うんじゃい、星。自分のやりたいことを探しに旅に出たのか。おれに何も言わずに。
それならそうと、一言、どうして。
心配をかけまい、と、そう思ったんじゃろうか。星と一緒なら、何でもできる気がしていた。どこへでも行けるような気がした。それなのに、お前はまた、たった一人で消えてしまったというのか。
「星………」
震える声で名を呼んで、伴は閉じた瞼の裏に浮かぶ彼の笑顔を、ぎゅっと抱き締めるようにして自身の腕を抱く。
あの小柄な体の熱がふいに蘇るような気がして、伴は、星、とまた小さく彼の名を口にした。