察知
察知 マンションの一室、とある部屋のチャイムを押すと、パタパタとスリッパを履いた軽い足音が聞こえ扉が開いた先から顔を出した飛雄馬の姉・明子に伴はペコリと頭を下げた。
明子は笑顔を見せ、どうぞと彼を招き入れる仕草をしてから飛雄馬!と弟を呼んだ。
二、三回ほど飛雄馬、と明子は大声を出したが、呼ばれた彼は自室から出ては来ない。ごめんなさい、ついさっき部屋に入ったばかりなんだけどと言う明子に伴は苦笑いで、ええです、ええですと手を振り、玄関で靴を脱ぐと台所に引っ込んだ明子を見送ってから飛雄馬の部屋の前に立った。
星、と先程明子がしたように伴は呼んだが返事はなく、一度ノックをしてから扉を開ける。
そう広くもない一室にベッドが置かれ、ジャイアンツのユニフォームが壁に付けられたフックに衣紋掛ごと掛けられていた。 どうやら飛雄馬は寝てしまっているらしく、考え事でもしている最中に睡魔にしてやられたか布団もかぶらずベッドの上で腹を上下させていた。
伴は吹き出して、飛雄馬のそばに足音を立てぬようそっと忍び寄る。呼吸の度に睫毛が揺れ、微かに開いた唇から吐息が漏れる距離まで近付いて、伴は小さな声で、「星」と呼んだ。
相変わらず起きる様子はなく、よほど深く眠っているらしかった。 起こすのも忍びなく、かと言ってリビングで明子と二人でいつ起きるとも分からぬ飛雄馬を待つのも場が持たぬと伴は考え、部屋のベッドの置かれた床に座り込むと胡座をかいた。飛雄馬の寝息が部屋には響いている。
コチコチとベッドのヘッドボードの僅かな幅に置かれた目覚まし時計が時を刻む。
伴はそのまま腕を組み、飛雄馬が起きるのを待った。しばらく、そのまま微動だにせず目を閉じていると、部屋の扉が叩かれ、盆にコーヒーの入ったカップとソーサー一式を乗せた明子が顔を出し、伴はわざわざすみませんと会釈し、それを受け取った。
「飛雄馬!伴さんがお見えになってるわよ」
「あ、ああ!明子さぁん、ええんです。星も疲れとるようですし」
飛雄馬が寝ていることに気付いた明子は彼を起こすべく大きな声を上げたが、伴が慌ててそれを宥め、「起きるまでしばらくここにおらせてもらいますわい」とコーヒーを啜りつつ笑った。
「何かあるなら起きてからでも私から伝えておくけれど……」
去り際にそんなことを言った明子に、ええんです、と再び手を振ってから閉じゆく扉を見送った。
そうして、伴が運ばれてきたコーヒーカップの冷えきった中身を時間を掛けゆっくり空にして再び腕を組んでからすぐに飛雄馬は目を薄ぼんやりと開け、瞬きを繰り返す。
「………伴」
「おう、星。起きたかあ」
「……伴!?なぜきみがここに」
ぼうっとした瞳で飛雄馬は伴を見遣り、しばらく彼を見つめていたが、はっと我に返ったか勢い良く跳ね起きて、床に座ったままの彼を見下ろした。
「すまんのう、起こしたか」
「あ、いや。そんなことはない。おれの方こそ……いつからここに」
言われ、伴は部屋に時を正確に刻む音を響かせていた目覚まし時計に視線を遣り、「三十分くらいかのう」ととぼける。実際はマンションの扉を叩き、部屋に招かれてから小一時間は経っている。
けれども、それを馬鹿正直に言う伴ではなかった。そうでなくとも、星飛雄馬と言う男は三十分も待たせてしまったのか、と気に病んでしまうような人間なのだから。
現に彼はすまない、と実に申し訳なさそうに眉尻を下げ、床に座る伴に謝罪の言葉を投げ掛けてきた。
「ワハハ、星よ。何を言うか。お前とおれの仲じゃろう。疲れて眠ることくらい人間誰しもあるわい」
陰気なムードをいつもの豪傑笑いで笑い飛ばし、伴はようやくそこで腰を上げる。
「しかし、わざわざ訪ねてきてくれたと言うことは何かしら用があったのだろう」
「用?なに、別にこれと言って用はないがのう」
「じゃあなぜわざわざ宿舎からうちまで」
「星の顔が見たくなったからじゃい」
「…………」
まったく想像もしていなかった台詞に、飛雄馬は眼前に立つ伴を驚きのあまり大きな目を更に見開いてから仰いだ。
「明日になれば会えるのは分かっとるが、居ても立ってもおられんくなってのう」
「ぷ、ふふっ。そんな、理由か」
「わ、笑うな!妙なことは言っとらんぞい!」
「十分、ふふふっ、妙だと思うが。大真面目な顔をしてお前の顔が見たくなったからだ、とは」
「む、う……そうかのう」
飛雄馬に吹き出され、今更になって己の発言が恥ずかしくなったか伴は顔をゆでだこのように真っ赤にして、目を泳がせる。
「伴よ」
「な、なんじゃい!!ええい、恥ずかしゅうなったわい」
「わざわざありがとう。嬉しいよ」
飛雄馬は言って、伴の方へ体の向きを変えると両腕を伸ばす。
伴は苦し紛れにふんと鼻を鳴らして飛雄馬から顔を背けるが、それも長くは続かず彼もまた膝を折り、床に膝立ちになると腕を広げ飛雄馬を抱き締める。
この刹那、呼吸の止まる一瞬。伴の大きな温かな腕にぎゅうと体を抱き締められ、彼の体温と鼓動を一身に感じるこの時が飛雄馬は堪らなく好きだった。飛雄馬は自身の肩に顔を埋める伴の頭を撫でてやり、そこに頬を寄せる。
と、ふいに伴が顔を上げ、飛雄馬の口元に唇を押し当てた。
「……っ、ふふ。伴、ねえちゃんもいるんだぞ」
「だから、これだけで済まそうとしとるんじゃい」
「…………」
ぼそぼそと伴は呟いて、目を閉じると唇を尖らせる。その顔がなんだか間抜けにも可愛らしくも見えて、飛雄馬はクスッと笑みを溢してから、彼自身も目を閉じ伴の唇に口付けた。
ちゅっ、ちゅっと何度も音を立て伴は唇同士を触れ合わせたかと思うと、今度は飛雄馬の頬を唇で触って、閉じた瞼の上へと口付けを落とす。その度に飛雄馬は小さく体を震わせて、吐息の混じった高い声を漏らした。
「へ、変な声を出すない!」
「す、すまない……」
頬を染め、飛雄馬は伴から目を逸らす。
「星……」
「伴!だめだ!ねえちゃんが」
「飛雄馬?起きたの?お昼、出来たから出てらっしゃい」
ベッドの上に押し倒され、あわや一線を越える寸前であった飛雄馬だったが、明子の登場によりすんでのところで難を逃れた。
「……ばかっ!ねえちゃんが入ってきたらどうするつもりだったんだ」
「星が変な声を出すからじゃあ!!」
「……まったく」
しょぼくれる伴を部屋に残したまま飛雄馬は姉の待つ台所へと繋がる廊下を歩いた。
「伴さんもお昼まだでしょう」
「ああ、伴の分まで用意してくれたのか。ありがとう、ねえちゃん」
「……飛雄馬」
「伴もすぐ来るさ」
「私、お昼を食べたら出掛けるから、あとはごゆっくり」
「ねえちゃん!!!!」
明子の準備してくれた昼食の配膳をしていた飛雄馬に彼女はそんな含蓄ある言葉を投げ掛ける。
まさか、そんなねえちゃんに、知られていたなんて、と飛雄馬は三人で囲んだ食卓で明子の発言など微塵も知らず舌鼓を打ちながら、しきりに彼女に話しかける伴とは裏腹に食事の味などほとんど分からず、その額には脂汗を浮かばせていた。
この後、後片付けをした明子は発言通り買い物に行ってきますと席を外したが、この隙にとばかりに距離を詰めてきた伴を飛雄馬は冷ややかな目で見つめ、それきり口も利かなかった。
それを受け、何がなんだか訳が分からず伴はあたふたと取り乱したが、飛雄馬がまったく取り合ってくれないことを知ると、がっくりと肩を落としたまま巨人軍宿舎に帰っていく。明日また床に頭を擦り付け平謝りしたら許してくれるだろうか、とそんなことを考えつつ。
あくる日、明子に事の始終が実はバレていたことを飛雄馬にこっそり教えられたお陰であまりの驚きに大声で叫んだために、チームメイトたちの顰蹙を買い、その日一日飛雄馬にもまともに取り合ってもらえず練習が終わるまで小さくなっている羽目になったことを、伴は無論まだ知ることはない。