留守
留守 星くん、星くん、とどこからともなく呼ばれる声に飛雄馬はハッと目を覚ました。
そうして、自分が眠っていたのがリビングの長ソファーの上で、はたまた自分の名を呼んでいたのが花形と知り、飛雄馬は慌てて体を起こすと、目の前の彼の名前を口にする。
「なんで、花形さんが、ここに」
「明子さんが今日は飛雄馬はいないから家に上がって待っていてほしいとおっしゃったものでね。きみが寝ているのに部屋に入るのは気が引けたが、入れ違いになるよりはマシだろうと思ってのことさ。悪く思わないでくれたまえ」
「…………」
ねえちゃんと花形の関係を否定する気も、反対する気もないがさすがに部屋の中にまで踏み込ませるのもいかがなものだろうか、と飛雄馬は一瞬考えたが、自身もまた、ねえちゃんも住む部屋に伴を招いていたから同じことか、と考えを改めた。
しかし、起きているところにやってくるのならまだしも、眠っているのに突然部屋の中にまで入ってこられたのではいい気はしない。
飛雄馬は、伴と約束があったんですが、あちらの都合でだめになってしまったので生憎と今日は1日ここにいましたよ、と声に怒りの色を滲ませた。
「……今後、ここには来ないことを明子さんにも伝えておこう。申し訳ないことをした」
「えっ?!いや、別に、そんな」
まさかの花形の言葉に飛雄馬は慌てる。
自分が花形を拒絶したことでねえちゃんとの関係にヒビが入るのではないか、と飛雄馬は真っ先に姉のことを気にかけた。
長屋を出て、とうちゃんや自分のことに心を痛めていたねえちゃんが外に自由にアルバイトに出かけるようになり、花形との距離をゆっくりとではあるが確実に縮めながらねえちゃんなりの幸せを掴もうとしているのに、こんなことでだめになってしまうことだけはどうしても避けたかった。
「…………」
「ねえちゃんも、じき、帰ってくると思います。鍵は持っていくので、戸締まりはして行くように伝えてください」
居たたまれず、飛雄馬は外出し、どこかで食事でもしようとソファーから立ち上がる。
自分はどうもこの何を考えているのかわからん、掴みどころのない男とふたりきりなのは場が持たん、と思ってのことだ。
花形のことをはにかみつつ語るねえちゃんはとても幸せそうだし、とても有意義な時間を過ごしているらしいことはその表情から読み取れるが、自分はどうにもこの花形満という男がよくわからんのだ──と飛雄馬は玄関先へと向かっていたところに再び、星くん、とやられ、今度はなんですか?と振り返る。
「別にそう急いで出ていくこともあるまい。大方、ぼくとの間が持たんと思ってのことだろうが、そう腫れ物扱いせずともいいじゃないか」
「…………」
わかっているのなら、黙って出て行かせてくれないだろうか、という嫌味を飲み込み、飛雄馬は方向転換をすると花形の佇むリビングへと戻り、ソファーに腰を下ろした。
「きみは本当に家族思いなのだな」
「どういう、意味ですか」
冷ややかな声で飛雄馬は尋ねる。
「おや、気を悪くさせてしまったのならすまない。きみは明子さんの名を出すとすぐ目の色を変えるなと思ってねえ」
「……ねえちゃんやとうちゃんがいてくれてこそのおれですからね。おれのせいであなたとねえちゃんの仲が悪くなってしまったら心苦しいですから」
花形はしばらく、飛雄馬の口から発せられる言葉を黙って聞いていたが、いつもの独特の笑みを浮かべると、目の前の彼を否定するかのような台詞を淡々と紡いだ。
「きみと明子さんは確かに血の繋がりはあるが性別も違う、年も違う。まったくの別人格だ。きみが何かしでかしたり、明子さんが何か失敗をなさったからと言ってどちらかを嫌いになったりなどしないさ」
「…………」
「ところで星くん、明子さんは何時に帰るとおっしゃっていたかね。ぼくは7時と聞いたつもりだったがもう7時を10分も過ぎようとしている」
「えっ?」
飛雄馬は手首にはめた腕時計に視線を落とす花形を見上げ、もうそんな時間ですかと訊いた。
「出る前に時間を合わせてきてから狂いはないはず。まさか、忘れて──」
「ねえちゃんはそんな……っ、探しに、行ってきます」
飛雄馬が勢い良く立ち上がり、駆け出そうとするのを花形は制する。
「家族思いなのは感心するが、まずは落ち着きたまえ。明子さんは時間は守る人だ。ぼくが間違えたのだろう」
「っ…………でも、何か、あったんじゃ」
「それならぼくが出る方が早いだろう。星くんはここで待っていたまえ」
「…………」
「星くん、行き過ぎた心配は身を滅ぼす。大丈夫だ。じき明子さんも帰ってこられる」
飛雄馬の心臓の鼓動がやたらに速くなる。
ねえちゃんはアルバイトに行く前に何か言ってはいなかったか?花形との約束を忘れてしまっているのか?それとも本当に何か事故にでも遭ったのではないか?
そんな考えが浮かんでは消え、消えては次から次へと浮かぶ。
「おれ、探しに──」
「星くん!」
花形が大きな声を出し、飛雄馬はビクッ、と身を震わせる。
と、玄関先で何やら物音がし、扉が開く音が聞こえた。
「ごめんなさい。すっかり遅くなってしまって……」
「あ…………」
開いた扉の隙間から顔を覗かせた明子の姿に飛雄馬の表情がパアッと明るくなる。
「…………」
花形はじっとその様子を何を言うでもなく眺めていたが、すぐに笑みを浮かべるとアルバイト帰りの明子を労う言葉をかけた。
すぐに支度しますと言う明子にゆっくりでいいですから、自分は下で待っていますと告げると、飛雄馬に邪魔したね、と囁くなり、玄関先まで歩くと靴に片方ずつ足を差し入れる。
そうして、振り返った花形を飛雄馬は見送るでもなく、慌てた様子で彼の後を追う姉に行ってらっしゃいと言うなり、テレビの電源を入れた。
飛雄馬は玄関先で扉の閉まる音をひとり聞きつつ、テレビに映し出される自分の侘しいひとりぼっちの姿に苦笑すると、ゆっくりとブラウン管の画面に映し出された芸能人たちの声を聞きながら、窓の外にそびえる東京タワーに視線を遣ったのだった。