恋慕
恋慕 長島監督に肩を温めておくようにと言われ、ブルペンにて投球練習を行う飛雄馬の右腕が放った球は、バッテリーの女房役である丸目の構えたミットのポケットに収まりきらず、その指先に当たるとはずみで彼の顎へと命中した。
「いっ!」
丸目の顎にぶつかったことで勢いの消えた球はそのまま地面へと落ち、コロコロと足元を転がる。
「……どうした。今日はよく捕りこぼすじゃないか」
YGマークの刺繍された帽子のひさしをほんの少し持ち上げて、額の汗を拭きつつ飛雄馬が声を掛けた。
「…………すまねえ」
鈍く痛む顎をさすり、丸目は足元にあった球を拾うと飛雄馬へと投げ返す。
それを左手にはめたグラブで受けて飛雄馬は調子でも悪いのか?と訊いた。
「何でも、ねえから。次はトチらねえから気にせず投げてきて構わねえよ」
「…………」
調子でも悪いのか、だって?
丸目は飛雄馬が腕を挙げ、投球モーションを起こす様をじっと見つめる。
なんだって、センパイはそんなに普通の顔をしてられるんだ──。
構えたキャッチャーミットの芯で球を捕らえ、パーン!と小気味いい音が辺りに響き渡った。
「よし。本番も今の調子で頼む」
帽子を取って、飛雄馬は額を掌で拭う。
もしかすると、昨晩のことは夢だったのではないかとさえ丸目は思う。
昨日、丸目と飛雄馬は関係を持った。
丸目自身、他人と肌を合わせることなど初めてで、何より、たった今まで普通に会話をしていた相手がこうも乱れるものだろうか、と、自分の体の下であられもない声を上げた彼のことを思い起こす。
薄暗い部屋の中で声を互いに殺して繋がり合った。睦事のことなど兄が部屋に無造作に置いていた雑誌でしかまだ見たことのない、しかも、それだって男女の行為のものであったし、まさか丸目自身、男で筆下ろしすることになろうとは夢にも思っていなかった。
けれども現に、丸目が初めて組み敷いた相手は自分と同じ同性で、はたまた栄光の巨人軍、絶対的エースの星飛雄馬であった。
長島監督から貰い受けた背番号3を冠し、右腕投手として不死鳥のように蘇ったと讃えられる彼。
幼い頃、中日戦にて完全試合を成し遂げ、当時中日の三塁コーチであった彼の父に背負われ球場を去った星飛雄馬の姿を丸目は兄と共に観ている。
彼がまさか青雲高校のOBであると知ったのは丸目が入学試験を受けに行った日のことで、校長室前の廊下に記念すべき青雲高校野球部甲子園初出場並びに準優勝という輝かしい成績を記した盾と記念旗がガラス張りの棚の中に展示されていた。
まだあどけなさの残る当時1年生、これから高校に入ろうとする丸目と同い年の星飛雄馬が他の野球部部員と共に写真に写っている。
それがあれから10年。
まさか目の前にその彼が現れようとは。
そうして、彼の肌の熱さを知ることになろうとは。
「丸目?」
「あ、っ!」
ミットで捕球したまま微動だにしない丸目を訝しみ、飛雄馬が名を呼ぶ。
「……っ」
丸目は球を投げ返し、眉をひそめる。
「昨日のことを、考えているのか?」
球を受けつつ飛雄馬が尋ねた。
「別に、そんなんじゃ」
「忘れろ、丸目。昨日のことは。おれとお前の間には何もなかった」
右手で球を握り、飛雄馬は淡々と言葉を紡ぐ。
「人の心弄んどいて言うことはそれですか」
「……………」
飛雄馬は視線を足元に遣り、丸目の顔を見ない。
「おれはあんたと野球がやりたくて、あんたに惚れ込んでここに入った。人の純情弄んで楽しいか」
「それはまだ丸目が若いからだ。あまりに近くにいるから、そう錯覚しているだけだ」
「そう思いたいのはセンパイの方だろ。それともあんた、誰とでも寝るような軽い男なのか」
「くっ………!」
顔を上げ、飛雄馬は丸目を睨む。
「今まで好き勝手、自分の好きなように生きてきたおれの価値観をあんたが変えてくれたんだぜ、星センパイよ。別にあんたの1番になりたいとか、そう言うんじゃねえ。あんたが実際、どういうつもりでおれとああいうコトをしてくれたかについて知るつもりもない。ただ、忘れろとかそういうことを言うのはやめてくれねえか」
「…………」
丸目から視線を逸らし、飛雄馬は奥歯を食い縛った。
「おれは星センパイがすきだ。それは揺るがねえし、変わらねえ」
「よせ!」
声を荒げ、飛雄馬は目元を球を握った右手で拭う。
「どうした。またケンカか」
はっ、と二人は弾かれたように顔を上げ声のした方を見据える。
長島監督自らブルペンに足を運び、二人を呼びに来てくれたようで、出入り口で腕を組むとこちらを見ていた。
幸いにも声を荒げたところしか聞かれていなかったようで、飛雄馬は、いえ、すみません、と帽子を取ると頭を下げる。
「ケンカをするなとは言わんが、試合にまで私情を持ち込まれたら敵わんな」
「まさか、そんな、とんでもない」
飛雄馬は長島監督の元に駆け寄って、そんな言葉を口にする。
「ははは、それは星が伴とバッテリーを組んでいたときから承知しているよ。何やら痴話喧嘩をしていても試合となると二人とも真剣そのものだったからな」
「痴話喧嘩などでは………」
キャッチャーマスクを額まで上げ、丸目は立ち上がると何やら話し込んでいる二人を見つめる。
あの長島監督でさえ知らぬのだろう。目の前に立つ彼の肌の感触を。唇の熱さを。
ああ、もうきっとセンパイはおれには触れて来ないだろう。忘れろと言うのは、そういうことだろう。
そんなの勝手すぎるだろう。
おれの心をその瞳に宿る炎で焦がしておいて、何もなかったことにしろ、なんて、そんなの虫が良すぎるだろう。
「丸目、行くぞ」
飛雄馬が丸目を呼ぶ。おう、と返事をすると丸目は駆け出し、先を行く飛雄馬と長島監督の後を追う。
今のおれにできることはただただセンパイの球をきちんと捕ることで──。
ブルペンから球場へ足を踏み出した丸目はカクテル光線の眩さに目を細めながら、球場を埋め尽くす観客らの星飛雄馬と自分の到来に歓喜し、スタンドを震わせる声援を聞いた。