御伽噺
御伽噺 「しょうらいのゆめ、かあ」
「将来の夢?ふふ、決まっているでしょう」
飛雄馬は卓袱台の上に鉛筆と消しゴム、それに原稿用紙を並べた格好で、考え事をするように目線を上へと上げた。その姿を横目で見遣りつつ明子は近くで取り込んだ洗濯物をひとつひとつ畳んでいく。
今日は珍しくふたりの父・一徹も日雇いの仕事に出ており、久しぶりに誰の顔色を気にするでもない、平和で和やかな午後を過ごしていた。
弟の飛雄馬も学校から帰宅し、早々に宿題に手を付けている。
ここに朝から飲んだくれ、いつも酒の臭いをぷんぷんとさせている父がいようものなら弟は帰宅するなりキャッチボールに駆り出され、日が落ちるまで投げ続けることを強いられるのだ。
そこから宿題を終わらせ、布団に入るのは深夜遅く。
だと言うのに父は弟を早朝に叩き起こし、またしても投球練習をさせる。
弟はいつも寝不足であった。
ゆえに、弟の体格は同級生らと比べても少し小柄なように明子の目には映る。
しかして、それを指摘しようものなら女に何がわかる、と平手が飛んでくることは目に見えている。
私は、弟の身より、自分の平穏を取ることを優先する悪い姉なのだ。
「じゃあさ、ねえちゃんの将来の夢はなんなんだい?ねえちゃんにもあるだろう、夢がさ」
「ねえさんの夢?そうね、お嫁さんになることかしら」
「お嫁さん?ふぅん、ねえちゃんはどんな人がタイプなんだい?」
「ばか!」 「ヘヘ、いいだろう。それくらい訊いたってさ」
飛雄馬が舌を出し、片目を閉じると頭を掻くのにつられ明子もまた笑いながら、そうね、と未来の夫の姿を頭に思い描く。
背が高くて、お金持ちで、ハンサムで、優しくて──。
そんな夢くらい、見たっていいわよね──。
考えはしたものの、明子はそれを口にすることはせず、柔和な微笑みのみを返すに至った。
「飛雄馬が無事、巨人の星になることができたらねえさんも安心してお嫁にいけるわね」
「あっ、はぐらかしたな、ねえちゃんめ!」
「ふふふ。いいじゃないの。ほら、さっさと宿題終わらしちゃいなさい」
ちぇっ、と舌打ちをひとつしてから飛雄馬は原稿用紙に子供らしい拙い字で将来の夢である巨人の星──すなわち、プロ野球選手になるという希望と期待を書き綴っていく。
『ぼくは名門・巨人軍に入団して、立派な投手になって父や姉に楽な暮らしをさせてあげたいです。』
「…………」
明子は、何度も鉛筆で書き直しては消しゴムで消すことを繰り返す弟の原稿を目で追ってから畳んだ洗濯物をそれぞれのタンスの中に仕舞いに行くため、腰を上げる。
私は、こんな家、出来れば早々に出て行きたいと思っていると言うのに。
過去、一度だけ家出をしたこともあったが、父に連れ戻され、怒鳴られ、張り倒され、表を歩けないほどに顔が腫れたこともあった。
弟はそんな私を庇ってくれた。
原稿用紙にだって現に私や父を楽にさせてあげたいとそう、書いている。
だけど私は、この家をどうしたら出ていけるのかとそんなことばかり考えている、弱い人間なのだ。
こんな家に生まれてしまったせいもあるかもしれない。皆、表向きはあんなお父さんを持って大変ねと言ってくれるが、誰も助けてはくれないのだ。
あと何年我慢すればいいのか。
かつての同級生らは高校に進学し、部活に勉学にと楽しそうに青春を送っているのに私と来たら……。
「ねえちゃん?」
タンスに衣類を仕舞ったのち、しばらくそこにぼうっと佇んでいた明子だったが、飛雄馬にふいに名を呼ばれ、ハッ、と我に返った。
「いやね、ぼうっとしちゃってたみたい」
「今日の夕飯のおかず、なんだい」
飛雄馬がそう、訊いたところで長屋の出入口の引き戸が開き、帰ったぞ、と父・一徹が顔を出したためにふたりの間に緊張が走った。
「おかえりなさい」
「飛雄馬、表へ出ろ」
一徹が帰宅するなり、飛雄馬を呼ぶ。
「あ、宿題……もう少しで終わるから」
「親の言うことが聞けんのか」
「…………」
飛雄馬が一瞬、泣きそうな顔をしてからグラブとボールを手にすると、長屋の外に出て行くのを明子は引き留めることも出来ず、目を逸らしていた。
戸を一枚隔てた向こうではグラブが硬球を受け留める乾いた音が響いている。
明子は急いで夕飯の支度をするため、台所に立つと米を研ぎ始める。
私の将来の夢なんてものは、きっと叶いはしない。
こんなところにいて、日々を生きていくのがやっとの私の目の前に現れる、素敵な王子様なんて存在するわけがない。
私は父に怯えながら弟の世話をし、一生を終えるのだ。私の母がそうだったように。
外から聞こえてくる弟をなじる、父の怒鳴り声を聞きながら、王子様なんて、そんなお伽噺に出てくるような都合のいい幻に縋るなんて、馬鹿げてるわ──と、己の単純さに吹き出し、明子は止まっていた手を再び動かすと、白濁した米の研ぎ汁を無心で排水口へと勢いよく流し込んだ。