おにぎり
おにぎり 行ってらっしゃい、と父・一徹を送り出した飛雄馬はふと、家の片付けを始めようかと立ち上がった明子を振り返って、ねえちゃん!急で悪いけどおにぎりよっつ、握ってもらえないかな!と言うなり、ニコリと微笑んだ。
え?どうして?と尋ねる明子に対し、いいから、お願い!と話をはぐらかし、早く早くと急かす。
「塩むすびでいいの?海苔も巻く?梅干し入れたほうがいい?」
「うん。種は取ってくれたら嬉しい」
へへ、と飛雄馬は鼻の下を指で擦りつつ笑うと、明子がおひつの中からしゃもじで朝ごはんの残りの飯をよそって、三角に握るさまを黙って見ている。
「急におにぎり握ってほしいだなんて、ふふ。どういう風の吹き回しかしら」
言われた通りにおにぎりを4つこしらえた明子は竹の皮でそれを包んでやると、はい、と包みを飛雄馬に差し出す。
「ありがとう。それからさ、ねえちゃんにちょっとついてきてほしいところがあるんだけど、いいかな?」
「え?」
今度こそ明子はぎょっと目を丸くする。
さっきから突拍子もないことばかり言って、一体どういうことなのかしら、と思ったものの、飛雄馬があまりにもお願い、と頭を下げ、頼むもので片付けもそこそこに彼とふたり、長屋を後にした。
「ありがとう、ねえちゃん」
「別に、ついていくのは構わないけど、どこに行くのかくらい教えてほしいわ」
「うふふ、いいからいいから」
飛雄馬は明子の手を引き、先を急ぐ。
「もう、飛雄馬ったら」
くす、と明子は笑みを溢し、飛雄馬もいつの間にかこんなに大きくなったのね、と自身の前を歩く弟の背中を見つめる。
ついこの間まで、よちよち歩きで私の後をついてきていたような気がするのに。
それが今ではもう、私の手を引き、先を行くようになるんだもの、と明子は何やら感慨深い思いさえ抱きながら、飛雄馬の後を追う。
と、ふわりと頬を何やら薄桃色の花びらが触れて、明子は飛雄馬の背中から視線を上げる。
「あ……」
住居としている長屋からそう遠くない公園へ飛雄馬に導かれるままに辿り着いた明子の目に飛び込んで来たのは満開の桜の木で、先程頬に触れた花びらもここから舞い落ちたものであろう。
「桜をねえちゃんに見せたくてさ。へへ、ずっと家のことばっかりだから……たまには、のんびりお昼にしてもいいんじゃないかなと思って」
「飛雄馬……」
明子の瞳がみるみるうちに涙に潤んで、今度は飛雄馬がぎょっと驚く番であった。
「ね、ねえちゃん?」
「ごめんなさい……嫌だわ、うふふ。泣くつもりじゃなかったのに……あんまり嬉しくて……」
そういえば、桜をこうしてまじまじと見上げたのはいつのことだろう。
母さんが亡くなって、家のことをひとりで請け負うことになって。
小さな弟を慰め、お酒を飲むとやたらと気が荒くなる父を宥め、暮らしてきた。
父さんに怒鳴られては泣いていた小さな飛雄馬はいつの間にか、こんなにも心優しい子に育ってくれていた。それだけで、私のしてきたことが報われるような気がして。
「……ねえちゃん、ひとりで頑張ろうとしなくていいからさ。おれと、ねえちゃん。姉弟、ふたりで力を合わせて、協力しあって、さ」
「ふふふ……嫌だわ、どこでそんな言い回し覚えたのかしら。おませなんだから」
「ち、ちがう!そんなつもりじゃ」
「飛雄馬、ありがとう」
かあっ、と耳までをも赤く染めた飛雄馬を明子はほんの少し身を屈めてからその体を抱き締め、彼の頭に頬をすり寄せる。
「ね、ねえちゃん。苦しいよ」
照れ隠しからか飛雄馬はそんな言葉を口にし、明子から距離を取ると、あっちでおにぎり食べよう、と少し陰になっている公園の隅を指差した。
ちょうど桜の真正面に位置する場所で、時間帯のせいか公園を訪れる人もほとんどいない、静かな時間がふたりの間には流れる。
「おにぎり、美味しい?」
地面に腰を下ろし、包みを開くとおにぎりをひとつ、姉に手渡してからそれにかぶりついた飛雄馬に、明子はそんな問いを投げかける。
「うん。ねえちゃんが作ってくれたものなら何でも美味しいよ」
ニッ、と笑顔を見せた飛雄馬の頬にはご飯粒がついており、明子はそれを指で取ってやりつつ、彼の笑みに釣られるようにして微笑む。
「おれが、巨人軍のエースになって、でっかい家を建てたら、庭に桜の木を植えるっていうのはどう?」
「ふふ、楽しみにしておくわね」
明子の答えに、飛雄馬はまたニコッと笑顔を見せ、おにぎりを再び頬張る。
すると、さあっ、と心地良い風が吹いて、再び桜の花びらが辺りに舞う。
明子は自分で握ったおにぎりを口に含みつつ、頬を撫でた爽やかな春の訪れに、表情を綻ばせた。