思い出
思い出 「扇風機の風を少し強くしてもいいかのう」
「これ以上強くしたら寒いぜ。シャツを脱いだらどうだ」
「ううむ」
伴が唸ったところで麦茶入りのコップの中で氷がカランと音を立てた。
ガラス容器の表面に付着した水滴が滑り、テーブル表面を濡らしている。
全身汗まみれになってクラウンマンションに顔を出した伴を、飛雄馬が室内に招き入れてしばらく。
飛雄馬と同居する姉の明子は、今日も朝から人手が足りないとかでガソリンスタンドのアルバイトに出ていた。
伴の汗は未だ引かぬようで、しきりに額の汗を手で拭っている。
部屋に越してくる際に、新調した冷蔵庫には製氷皿が付属して来ており、とても驚いたものだった。
飛雄馬姉弟と一緒に、電化製品屋で家電を選んだ伴は変な顔をしていたが、明子は初めて見る文明機器に目を輝かせていた。
その冷蔵庫が作ってくれた氷を浮かべて飲む麦茶は長屋にいた頃と全く同じものなのに対し、飛雄馬は何か味気ないような、舌触りが違うような印象を受けた。 この部屋にはクーラーだってある。
冬に隙間風が吹き込み、寒さに凍えることもない。
ねえちゃんは新品のキッチンで料理をし、最新家電を用いて掃除をすることが楽しいようで、違和感を覚えているのはどうやらおれひとりらしい。
ここにとうちゃんがいてくれたら、感じ方が少し、違っていただろうか。
「星、また何か考え込んどるな」
「あ、いや……暑くてぼうっとしてしまっていた」
「そりゃぼうっともなるわい。この暑さは殺人的じゃ。練習が休みでよかったぞい」
もう冷やし中華が始まっとるかもしれんな、と伴が続ける。
「昼は食べに出ようか」
「しかしこの暑さじゃのう」
伴は耐えきれなくなったか、首を振る扇風機の動きを止めると風量を最大にし、その風を真正面から浴びた。
「まったく、子供だな」
はは、と飛雄馬は笑って、テーブル上に置かれたままになっていた麦茶入りのコップを手にすると、中身を口に含む。
氷のせいで少し、味が薄まっている。
今は違和感を覚えるこの味も、いずれ当たり前になって、とうちゃんとの思い出は過去になっていくんだろうか。
「外に、出ようか、星よ。なんだか思い詰めとるようじゃから」
「…………」
「親父さんのことじゃろう、どうせ……考えたってしょうがないじゃろ。今はやれるだけのことをすればええ」
麦茶と共に口に含んだ氷を奥歯で噛み砕き、飛雄馬は、そうだな、と淡々とした口調で言葉を紡ぐと、もう昼だな、と手首に巻いた腕時計に視線を落とした。
「そろそろ出るか」
「タクシーを使おう、星。おれが奢るから」
「たまには歩いたらどうだ。ここに来るのもタクシーを使ったんだろう」
「め、面目ない……」
言われ、肩を落とす伴の姿に苦笑してから飛雄馬はコップの中の麦茶を一息に飲み干すと、その場から立ち上がる。
そのまま伴も扇風機の電源を切ると立ち上がり、玄関先で待つ彼の姿を追った。
互いに靴を履き、扉を開けて廊下を出ればむっとした熱気が肌を刺す。
ちょうど帰宅してきたらしい二軒先の老夫婦に軽く挨拶をし、ふたりはエレベーターに向かうと、そこに滞在したままになっていた箱に乗り込み、一階へと降りた。
「うう、もう外に出るのが嫌になってきたわい」
「どちらにせよねえちゃんに買い物を頼まれている。ねえちゃんもこの暑いのにご苦労様だな」
エレベーターの箱の中でそんな会話を交わし、到着した先でふたりは外に出ると、マンション出入り口の扉を開け、人や車が行き交う往来へと足を踏み出す。
その瞬間、どっと汗が吹き出し、飛雄馬は照りつける太陽光に目を細め、その熱と明るさから逃れるために額に手を遣った。
「溶けそうじゃわい」
「ふふ、溶けたほうが体型も少しすっきりしていいんじゃないか」
「に、にゃにお……いや、やめとこ。よけい汗をかく」
ふふ、と飛雄馬は再び吹き出すと、行こう、と歩み始める。なるべく日陰を歩いてくれい、の声に返事をしつつ、飛雄馬は、いつかの夏に父と炎天下の中行った投球練習のことをふと、思い出していた。