重み
重み 「ううむ、おれも応援団長を買って出るくらいにはルールを理解しているつもりだったがなかなか真剣に学び始めると野球ちゅうのは奥深いスポーツじゃのう」
今日は雨ということもあり、グラウンドが使えないために他の野球部員たちは部室の片付けをしたり体ほぐしの運動をしている中、伴と飛雄馬のふたりはこの1階に位置している3年生のクラスでそれぞれ椅子に座り、机に向かっていた。
伴は言うまでもなく自分の席に着いているが、飛雄馬はその隣に並べてある椅子と机を断りもなく拝借し、野球のルールブック片手に隣の彼に話しかける。
「まだまだ覚えなきゃいかんことは山ほどあるぞ。野球は単純なようで意外と難しいんだ」
「頭が痛くなってきたわい……こんなに詰め込まれては柔道の技やルールを忘れてしまいそうじゃあ」
鉛筆をノートの上に投げ、伴は椅子に座ったまま背伸びをすると窓の外に視線を遣った。
昨日の晩から降り続く雨は一向に止む気配を見せず、グラウンドにも大きな水溜りが出来てしまっている。
まったく、辛気臭くて敵わんわい、と伴は心中で毒吐きながら隣でルールブックをめくる飛雄馬の横顔を見遣る。
未だ幼さを残すその顔はあどけなく、柔道部の厳つく筋骨隆々の男どもばかりと顔を合わせてきた伴にとって星飛雄馬という少年との出会いは色んな意味で青天の霹靂であった。
PTA会長の息子、はたまた伴自動車工場社長のひとり息子である自分に逆らう者は未だかつて存在しなかったし、身なりこそばばっちいが顔は申し分ないほどの美少年で────。
「伴?」
ふいに名を呼ばれ、伴はハッ!と我に返ると頬を染め、鉛筆を手に取る。
「あ、いや、すまん。さっき教わったことを思い出しとったんじゃい。決してぼうっとしていたわけじゃないぞい!」
テヘヘと照れ隠しに笑みを浮かべ、伴は鉛筆の尻を指でくりくりと回した。
「数学や英語よりよっぽど簡単だと思うぜ、伴」
「しかし、前々から気にはなっていたがその本、だいぶ年季が入っとるのう」
やれやれと言った顔をして本を閉じた飛雄馬の顔と手にしているルールブックとを交互に見つめつつ伴が尋ねた。
「ああ、これか。おれが物心つく前から読まされていた本だからな。字は読めずとも絵を見れば分かるだろう、とね」
「そう、じゃったのか」
「ふふふ。算数や国語を習う前から野球のことはみっちり覚え込まされていた。おれに与えられたのはこの本とグローブ、それに硬球だけさ。きみに分かりやすいよう持ってきただけで、中身は全部頭の中に入っているぜ」
そう、飛雄馬が言ったところで、天野先生が呼んでるぜ、と野球部員のひとりが伴と飛雄馬を呼びに来たもので、一旦この勉強会は中断することとなった。
後片付けを終え、教室の戸締まりをしてからふたりは部員らの待つ部室に向かうために薄暗い廊下を歩む。
「星、その、良ければなんじゃが、さっきの本をおれに貸してくれんか?」
「それは構わんが、こんなばっちいのより新しい本が本屋に売ってあると思うぜ」
「それがいいんじゃい。バッテリーを組む星とおれの間に何かしらすれ違いが起きるのはよくないわい!星と同じようにルールを覚え、それを試合に活かす!星、この伴宙太、勉強は苦手じゃが、おれがしっかりせんときさまに迷惑をかける。それだけは嫌なんじゃあ」
「…………」
ドンと広く厚い胸を拳で叩いた伴の顔を飛雄馬は見上げ、一瞬眉間に皺を寄せると下唇を噛んだが、それなら、と通学鞄に仕舞い込んだボロボロのルールブックを取り出すと、そっとそれを差し出した。
「…………」
あちこち破れ、手垢で汚れたルールブックを受け取り、伴もまた泣くのを堪える。
いくら子供の頃に買い与えられたものとはいえ、その辺に放っておいたくらいでこんな風には決してならない。
星はこの本をボロボロになるまで何度読み返したことだろう。
すべて暗記してしまえるほど、毎日、何年にも渡って目を通してきたのだろう。
「もう、それはきみにあげよう、伴。これを渡したからにはしっかり頼む」
「……おう」
大事に学生鞄の中に仕舞いつつ、伴は頷く。
「ふふ、それにしても、きみがやる気を出してくれたようで嬉しいぜ」
「なにぃ?今までやる気がなかったみたいな言い方しおって!」
声を荒げた伴から逃げるように飛雄馬は笑顔を浮かべ、廊下を駆ける。
その後を追いつつ、伴は手にした鞄の中身、本の重みを感じながらまた少し、泣きそうになった。