沖診療所
沖診療所 「最近、調子がいいようだね」
「え?」
沖診療所所長でこの村唯一の医者でもある沖竜太郎に声をかけられ、日高美奈はきょとん、とその大きな目を見開いた。
彼女もまた、沖診療所に在籍している唯一の看護婦である。とは言え、高校中退の身で、資格もないために厳密に言えば看護婦見習い、であるのだが、沖は彼女に包帯の巻き方からカルテの書き方まで懇切丁寧に指導した。
ある日突然、ここで働かせてくださいと訪ねて来られたときには心底驚いたし、看護婦の仕事というのは楽ではないし、辛いことの方が多いとも語って聞かせたが、彼女は凛とした態度で、それでも、と食い下がって来たゆえに最後は根負けしたと言うのが正しいか。
患者たちもまだ若い看護婦見習いに対し、初めは半信半疑であったし、露骨に嫌悪する人間もいたが、彼女の親切な、そして真摯な姿勢に心打たれ、今では日高美奈の顔を見に診療所を訪れる人もあるほどだ。
気丈な彼女ではあったが、何やら体が弱いのか時折、顔を真っ青にしながらその場に屈み込んでしまうこともあり、心配していたが、ここ最近はそういった様子も見受けられず、沖は内心ホッとしていた。
「例の、星飛雄馬くんのおかげかな」
「そんな……」
美奈は白い頬を僅かに染め、洗濯し、天日にて乾かした包帯をくるくると器用に巻き直していく。
「別に彼との交際を反対しているわけじゃないさ。応援したいとさえ思っている」
「星さん、ああ見えてとても繊細な方なんです。東京の人って冷たい印象があったんですけど、そんなことない。美奈の勘違いでした。とても優しくて誠実で、宮崎の……いえ、今の若い人たちにはない、何かを星さんには感じるんです」
そう、星飛雄馬のことを力強く語る彼女の目は光り輝いており、沖は日高くんはよい青年と出会ったな、と口元を綻ばせる。
この年頃の男女の出会いと言うのは人間を成長させもすれば、堕落させもする。
異性を知り、道を踏み外した者も大勢いると聞く。
互いを思いやり、尊敬し合うことができる男女の出会いなど一生のうち、一度あればいい方であろう。
沖はまだ己が学生時分であった頃を思い出し、ふふ、と笑みを溢すと、手首に巻いている時計に視線を落とし、そろそろ時間だろう、と美奈に告げた。
「いえ、まだ後片付けが終わっていません」
「後はこちらでやっておくから日高くんは星くんのところに行きなさい。今日は患者さんが多かったからね」
「いいえ。それは出来ません。与えられた仕事を途中で放り投げるなんて真似、美奈には出来ません。それに、星さんなら正直に理由を話せばきっとわかってくださいます」
「……わかった。そうと決まればおしゃべりはやめにして手を動かそう」
きっ、と真っ直ぐにこちらを見つめ、きっぱりと言ってのけた日高美奈に気圧される形で沖は診療所の片付けを開始し、ようやく彼女を送り出した。
ふう、とようやくそこで一息つき、患者のひとりに診察代として譲り受けた焼酎を煽る。
懐かしい、自分にもあんな頃があった。
自分が医者になろうと、無医村に身を置こうと思ったのも、高校で同じクラスだった彼女に…………。
沖は、酒が入り、ややぐらつく頭を振ると、脳裏に浮かんだ面影を振り払い、焼酎の注がれた盃を口元に遣った。