往訪
往訪 頭側を上げたベッドにもたれてからぼうっと病室のテレビを眺めていた飛雄馬だったが、扉のノック音に、はい、と返事をした。
「…………」
しかして、扉の向こうにいる人物から応答がなく、飛雄馬は空耳か?と首を傾げてから、どうぞ、と声をかけた。
「……入るぞい」
「…………!」
大方、ノックの主は看護婦か担当医だろうと思っていた飛雄馬だったが、扉を開けつつ顔を覗かせた人物の登場に驚き、目を見開いたまま固まる。
「……なんじゃい、その顔は」
「ば、ん……なんで、きみが」
ばつが悪そうに苦笑いを浮かべ、見舞いの品だろうか花束と果物の入った籠を手にした伴宙太の来訪に飛雄馬はじわりと目頭と鼻の奥が熱くなるのを感じながらも唇を強く引き結び、泣くのを堪えた。
「昨日、退院してのう。さっきまで監督さんと会っちょってな」
「そ、うか。退院、おめでとう」
あからさまに視線を逸らし、飛雄馬は、まあ、座れよと部屋の隅に置かれている丸椅子を伴に勧める。
何をしにきた?の言葉は喉元まで出かかっている。
沈黙が気まずい。何を話せばいいのかわからない。
テレビから流れるニュース番組のアナウンサーの声が狭い個室の中に響いている。
「おれが訊くのもどうかと思うが、腕の、その、経過は……」
飛雄馬の勧めた丸椅子に座った伴が歯切れ悪く尋ねる。
「ああ、もう、二度と野球はできんそうだ」
見た目では以前と何ら変わりない左腕をほんの少し挙げてみせ、飛雄馬は力なく笑みを浮かべる。
「あ、っと……その……す」
「謝罪にきたのか?こんなことになるなんて思わなかった。そんなつもりじゃなかったと。コーチに言われれるがまま夢中で球を打ち、走っただけだと、そう、きみは言い訳をしにきたのか」
「…………」
「ふふ、なに……来てくれて嬉しいよ、伴。きみこそ退院したとは言ったが、体はもういいのか」
目に見えて肩を落とす伴に笑いかけ、飛雄馬は花束を花瓶に生けてくれと指示を出す。
「お、おう……」
ぎこちない伴の挙動に飛雄馬は、もう昔のようには戻れないのだろうな、とそんなことを思う。
他愛ないことで笑い合い、喧嘩をし、日々猛特訓に明け暮れたあの頃の日々はもう戻ってはこない。
それは彼が中日への入団を発表した日──いや、マンションで訣別を言い渡した日にわかっていたことだ。
おれが野球ができる、できない以前の問題で、伴は巨人の万年二軍の背番号119ではなく、中日の背番号8を背負った一軍の選手なのだから。
室内の洗面台で花瓶へと水を汲み、そこに持ち寄った花束の花を生けた伴がここでいいかと窓辺に置きつつ尋ねたのに対し、ああ、と答えてから、飛雄馬は、試合にはもう出るのかと訊いた。
「…………やめることにしたんじゃい」
「やめる?なにを?」
「野球を」
「えっ?」
飛雄馬は伴の言葉に声を上げるとともに、ずきんと突然痛んだ左腕を押さえ、うずくまる。
「星!」
「っつ……大丈夫。そんなことより、なぜ野球をやめるなんて……」
「か、看護婦さんを呼んでくるわい。待っちょれ」
動揺し、今にも病室を飛び出して行こうとする伴を制止し、飛雄馬は大丈夫だから、と声を荒らげ、理由を聞かせてくれと痛みに顔をしかめつつ言葉を紡いだ。
「し、しかし……」
「すぐ、治まるから……大丈夫だ」
「……おれが野球をやっちょったのは、星と戦うためでも巨人や中日を日本一にするためじゃのうて、星とに地獄の底まで着いていくと誓ったからじゃい。星があの後大怪我をして入院しちょると聞いてからはずっとそのことを考えとったんじゃあ」
「つ、う……」
今更、何を言い出すのか?
飛雄馬はベッドの足元を跨ぐようにして設置されているテーブルに置かれた鎮痛薬に手を伸ばし、錠剤ふたつを口に放り込んでからピッチャーでコップに汲んだ水を一息に飲み干す。
そうして、ベッドに背を預け、息を整えてから、おれの腕のことを聞いたからか?と尋ねた。
「いいや、それは違う。星の腕は関係ない。星が現役を続けるというのならずっとそばにいて支えてやるつもりじゃった」
「ふふ、都合のいい話だな……っ、伴はあの頃のように戻れると思っているのかい」
じわじわと鎮痛薬が効き始め、飛雄馬の腕の痛みはゆっくりと引いていく。
「…………」
「残念だが、おれはそんなに器用じゃない。一度は別れた道だ。きみは、伴は自分の人生を自分の足で歩んでくれ」
「せ、精一杯、ない頭で考えた答えじゃい。おれはずっと星と……いや、星が野球ができなくなったというのなら、ともに生きる道を、一緒に模索したいんじゃい」
「ふふ……プロポーズか、それは」
「なっ……!」
一瞬にして伴の顔が赤く染まり、飛雄馬は小さく微笑む。
「冗談……見舞い、ありがとう。そしてすまんが、もう、ここには来ないでくれ」
「星っ……」
椅子から立ち上がった伴が叫び、勢いで音を立てて倒れた椅子が床へと転がった。
「おれはっ……きみに、幸せになれと言った。おれに尽くすだけが人生ではない、と。伴には伴の人生があり、おれにはおれの人生がある。きみはもうおれのことは忘れて、地道にしっかり生きるんだ」
ようやく、そこまで言葉を途切れ途切れに紡いだ飛雄馬の瞳から涙が溢れ、頬を伝う。
「いっ、いやじゃ。おれは星が首を縦に振るまでここを動かんぞ。絶対に」
「伴、いいのか。きみの人生はそれで、それでいいのか。おれひとりに捧げる人生で」
「構わんと言っとるじゃろう!」
「なんですか!病院で大きな声を出して!」
扉を勢いよく開け、顔を出した看護婦に怒鳴られたことで、場はしんと静まり返る。
何事かと廊下を歩いていた患者や見舞い客も野次馬のように部屋の前には集まってきており、彼らもまた看護婦に怒鳴られ、蜘蛛の子を散らすように散り散りになった。
「……ひとまず、今日のところは帰るわい。明後日の左門と京子さんとやらの結婚式には星も来るんじゃろう」
「…………」
「返事を、そのときに聞かせてくれい。星、おれは本気ぞい……」
伴はそう言い残し、去っていく。
看護婦もまた、伴を見送ったあと、飛雄馬に騒がしくするのなら退院してもらいますからね!と捨て台詞を吐いてから病室を出ていった。
ぽつんと部屋にひとり残された飛雄馬は、今頃痛みが引いたことに苦笑し、額の汗を右手で拭う。
伴、その言葉を今、口にするのでは遅すぎる。
あの日、二号が打たれたとき、そう言ってくれていたら、おれは喜んでその手を取っただろうに。
野球なんて捨ててしまえ、おれと一緒に生きよう、と。
いいや、結果論に過ぎない。おれはあの日にそう言われたとて、とうちゃんをひとりにはできないと手を振りほどいていただろう。
まったく、弱ったところにとんでもない台詞を浴びせてくれたものだ、伴のやつ…………。
飛雄馬は、引き出しの中に仕舞い込んだままになっていた左門から手渡された結婚式の招待状を取り出し、それを眺める。日取りは退院予定日の午後。
おれの退院の予定を聞いてからふたりで決めたという式の日程。
「…………」
目を閉じ、飛雄馬はいつの間にかバラエティへと変わったテレビの音声を聞く。
ねえちゃんも花形と結婚しようと思っていると話してくれたか。
皆、それぞれの道を歩もうとしている。
おれは、壊れた腕でこれから何をすればいいのかわからない。伴に甘えてしまっても、いいのだろうか。
「星さん、お食事です」
先程怒鳴り込んできた看護婦とは違う、若い看護婦が食事の乗った盆を手に部屋へと入ってきた。
「ありがとう、ございます」
「もうすぐ退院ですね。痛みはもうありませんか」
「ええ。もう、大丈夫です……野球はできませんが、退院したら何かしらで食べていこうと思います」
「…………大丈夫ですよ、若いんですから。いくらでもやり直しはできますよ。食べ終えた頃に食器は下げにきますから、食器はそのままで結構です」
「…………」
部屋を出ていく看護婦を見送り、飛雄馬はふっ、と吹き出す。
若いんですから、やり直せる、か。
高校中退の身で、野球以外のことは何も知らないおれから野球を取って、何ができるというんだ。
ひとり残された部屋で飛雄馬は味気ない、病院食を口に淡々と運びながら伴が持ち寄った花瓶の花の花弁が一枚、ひらりと床に落ちるのを見た。
退院は明後日。入院するために急遽揃えてくれた荷物を明日、ねえちゃんとその婚約者である花形が引き取りに来てくれると言っていたな、と飛雄馬は数日前の約束を回想しながら、処方された食後の薬をピッチャーの水で喉奥へと追いやる。
そうして、ふと、姉の左手薬指で光っていた婚約の際に送られたという指輪のことを思い出し、また小さく、笑った。