入院病棟
入院病棟 「……どうぞ」
「失礼するよ」
ここを訪ねる前に立ち寄った生花店で購入した見舞い用の花束を手に、入室を許可する声を聞くなり、花形は扉を開ける。
個室に身を置く彼──星飛雄馬は、一瞬、開いた扉の方に視線を遣り、顔を輝かせはしたが、花形の姿を目の当たりにすると、ふい、と顔を逸らした。
彼に喜んでもらうために顔を出しているつもりは更々ないが、このような態度を取られるのは些か腹が立つ。とは言え、花形はそんな腹の底など噯にも出さず、ただただいつもの調子を崩さぬまま、変わりはないかい?と尋ねた。
都内某所に位置する大学病院、整形外科の入院病棟。
高い建物の、およそ中間地点に星飛雄馬は身を寄せていた。花形は彼がここに運び込まれてからというもの、毎日のように彼を訪ねては持ち寄った花を換えていくことを繰り返している。
ファンが送ってくれたという千羽鶴、宛名や文面がすべて平仮名で書かれたはがき、見舞い客が病院の受付に巨人の星に渡してくれと寄越したらしい果物の詰め合わせが殺風景な病室を彩る。
「……伴くんは明日退院するようだよ。退院したらすぐきみを見舞うつもりだと話してくれた」
「……そうですか」
左腕を、首から提げた三角巾で吊ったままの飛雄馬が花形を見遣り、淡々と答えた。
「左門くんの式に向けてぼくたちも大忙しさ。星くんの退院も間に合いそうだね」
「さあ、どうだろうね」
素っ気なく、飛雄馬は返事をし、薄いレースのカーテンの向こうに視線を遣る。
表情を崩さぬまま、明子さんは?と花形は飛雄馬に尋ね、ベッドサイドテーブルの上で持ち寄った花束の包装を解く。
「ふふ、ねえちゃんに会いたくて来たんですか。あいにく、今日はまだですよ。ああ、考えてみれば、花瓶の花もねえちゃんが好きなものばかりだ」
「………………」
「ねえちゃん、ここのところ口を開けば花形さんの話ばかりで…………左門さんの次は花形さんとねえちゃんかな」
「他人のことよりまずは自分の腕を治すのに専念したまえ」
「おれのことなど気にせず、ねえちゃんとの逢瀬を楽しんだらいい。おれからねえちゃんには話しておきますから」
「……ぼくはきみを見舞いに来ているのであって、明子さんは関係ない」
「…………」
飛雄馬が口を噤み、花形もまた口を閉ざす。
巨人の星、突如マウンドで倒れる──の記事が、スポーツ紙の一面を飾ってから今日で何日を迎えたか。
バットを狙う魔球、そして消える魔球と事あるがごとにスポーツ紙を賑わせて来た巨人の星飛雄馬の名。
その彼が救急車で運ばれた先、大学病院の整形外科医は左腕で今後二度と球は放れぬ、と神妙な面持ちで父と姉、そして花形に語って聞かせた。
マウンドで突然倒れた巨人の星の容態を知るべく、連日報道陣や記者らが病院に詰めかけ、花形と明子はその対応に追われる日々がしばらく続いたが、その理由が明らかになるとすぐ、彼らは姿を消した。
何だ、たったそれくらいで、人騒がせな──手術をすれば良くなるんだろう──。
訳を知った人々はそう吐き捨て、以前の生活に戻っていく。人間の興味など、そんなものだ。
もう、彼の腕が白い硬球を放る日など二度とやってこないと言うのに。
「花形さんは、野球を続けるのか」
「…………」
「……おれとしては、あなたの活躍を見ていたい。かつてあの阪神の花形と共に互いを高めあった日々もあったと、自分を鼓舞できるから」
「かつて?きみこそもう野球はしないのかね。きみの巨人の星になるという夢は、志半ばで潰えてしまうのか」
「今は、ふふ、とてもじゃないがそんな気にはなれん。だからと言って花形さんに待っていてくれとも言えない。それに、もうこの腕で野球はできないさ。それはねえちゃんや花形さんがいくらごまかそうとしてもわかる。おれが診察を受けた町医者が言っていたからね」
「…………」
事実を知れば──もう二度と野球はできないことを知ったら、きっと星飛雄馬は命を絶とうとするだろう、そう言ったのは彼の姉だったか。
突然、腕を押さえ倒れた彼のレントゲン写真は目を覆いたくなるほど惨たらしいもので、明子は医師を前に声を上げ泣き喚いたし、花形自身もまた、言葉を失った。だからこそ、入院し、治療を続ければ腕は治る。
以前のようにまた野球をできるようになる、と嘘をつき続けよう、と医師と看護婦、そしてぼくの間でそんな取り決めを交わしたというのに、星くんは、それを知っていたのだ。
「音がしたんだ」
「音?」
花形が訊き返すと、飛雄馬は薄く笑みを湛え、続ける。
「腕の筋や神経、何もかもが弾け飛ぶ、破滅の音。腕の不調を見せに言った医者にそう言われたさ。ピシッと音がしたらもうだめだ、とね」
「…………」
「ふふ、だからもう、おれのところに来る必要はない。もう治る見込みのない人間に構わないでほしい」
「どういうつもりか知らんが、なぜそんな弱音を吐く。失望したよ、星くん」
「……もうだめですよ、花形さん。おれは幾度となくあなたに発破をかけられ、その度に立ち上がってきましたが、今度ばかりは」
「それなら今後、きみは何を胸にし生きていくつもりなのかね。過去や思い出を噛み締め、過去の栄光に縋りながらとでも言うのかい」
「そ、そうは言っていない。それは、追々……」
「追々、ねえ。フフフ……ぼくが訪ねるたびに伴くんじゃあないかと目を輝かせては、違うとわかるや否や、露骨に嫌そうな顔をする今のきみの姿は、ぼくから見るとただ毎日を自堕落に生きているようにしか見えんがね」
その言葉にカッとなったか飛雄馬の顔が赤く染まる。
病院に運び込まれてからは、心ここにあらずと言ったようなどこかぼんやりとした表情を浮かべることの多かった飛雄馬に色が灯ったことで、花形はニヤリと口元に笑みを浮かべた。
そうしてまた、彼を煽るべく、口を開く。
「花形さんに、何がわかるって言うんだ。幼い頃から巨人の星を目指せとそればかりで、娯楽なんて、遊びなんて何ひとつとうちゃんからは教えてもらえなかった。何不自由なく育ったであろう花形さんにおれの気持ちなんて……」
しかして、言葉を紡ぐより先に飛雄馬にまくしたてられ、花形はフフッ、と再び笑みを溢す。
「わかりたくもないね。きみの言い訳など聞きたくもない。そんな泣き言は伴くんにでも聞いてもらうといい」
「っ……、帰れ、帰ってくれ花形さん!二度とおれの前に現れないでくれ!」
「…………」
包装を解いたままの花束を残し、花形は言われたとおり素直に部屋を出る。
あの場に残り、言い争ったところで状況が改善するとも思えなかったからだ。
己もまた、ずいぶんと、弱気になってしまったものだ。あのレントゲン写真が脳裏に焼き付いてしまっている、もう二度と野球はできないことを告げるあの一枚が。
相当量の鎮痛剤を服用しては痛みをごまかし、マウンドに立っていたであろうと医師は言った。
「花形くん、今から帰るとですか」
聞き覚えのある九州訛りに呼ばれ、花形はハッ、と患者や看護婦の行き交う廊下の途中で歩みを止める。
「左門くんか」
目の前の彼──その足の爪先から、丸縁の眼鏡を掛けた顔までを見つめ、花形は左門の名を口にした。
「星くんの、腕の調子はどぎゃんですか」
「……きみの結婚式には間に合うそうだよ」
なんと答えようか考えあぐね、花形は咄嗟に、そんな嘘をついた。
そうですか、左門はそう言って、大きな溜息を吐く。
星くんにはどうしても来てほしかけん……と続け、京子も楽しみにしとります、と微笑む。
「……少し、話さないか」
花形は星くんは眠ってしまったよ、と自分の行き先を立てた親指で指し示し、外に出ようと左門に告げた。
左門は頷き、先を行く花形の後を追うようにして歩き出す。星くんのことを、彼には告げるべきか、加え、何も知らず入院しているであろう彼にも、包み隠さず、すべてを。
花形は道中、ひとり、そんなことを考えつつ行き交う人々とすれ違う。
この数時間後に、星飛雄馬は病院から姿を消し、それから五年もの間行方をくらますことになるのを今は誰も知らず、花形は左門が語る、まだ見ぬ彼女の惚気話に、愛想笑いを浮かべるばかりであった。