ノスタルジー
ノスタルジー 「星!!やっときさまの球を捕れるようになったぞい!」

──そう言って、伴が初めておれを抱き締めてくれたのは、確か高校生の時分だったように記憶している──。

全身を痣だらけにしながら、おれの球を捕ろうと奮起する伴の姿を、青雲高校野球部の部員たちは遠巻きに眺めていたし、どこか腫れ物のような扱いをおれはあの日以来、受けていた。
野球部応援団長を務める伴が、初めておれの本気の投球を見事受け留めた、その日からである。
ここの野球部連中は、金持ちのボンボン校の部活動らしく道具にはこだわり、皆それなりの格好をしていたが、ほとんどが高校から野球を始めたような初心者ばかりで歴が一番長い者でさえ、中学から始めたという有様であった。
部長の天野先生でさえ野球の経験は皆無に近く、気の弱さから無理やり野球部の顧問を押し付けられたような話だった。
そんな中で数日前から血を吐き、全身から汗を吹き出しながら捕球練習を行う伴と飛雄馬の姿が異様に映るのも無理はない。
おれ自身、幼い頃から例の薄気味悪いギプスが奏でる金属音と飲んだくれのとうちゃんのせいで集団の中から爪弾きにされることは慣れていたし、伴さえ球を捕れるようになってくれたら、他の連中にどう思われようと構わない、とそう思っていた節があった。
しかして伴は、今までの態度をがらりと改め、野球部の雑用を買って出たし、自分から積極的に部員らに馴染もうと冗談を飛ばし、場を和ませることもあった。
それを少し離れたところで眺めながらおれはどこか、チクリと胸を刺す痛みを抱えていたこともまた事実だった。
おまえが野球をするに至るきっかけを与えたのはおれだろうに。どうして伴はそんな連中と仲良くするんだ?
一時は伴を嫌い、排除することばかり考えていた部員たちも何故、そうすんなりと受け入れられるんだ?
そして、なぜおれはこんなことを思ってしまうんだ?
「おうい、星。聞けよ、こいつまだ母親と同じベッドで寝てるらしいぜ」
「ば、ばか、よせよ!」
くだらぬ会話を繰り広げ、グラウンドに響き渡るような声でげらげらと馬鹿笑いをする部員たちに背を向け、飛雄馬は少し離れたところから伴を呼んだ。
「お、おう。今行く」
「また始まったよ、星のシゴキが」
「たまには休ませてやりゃあいいのにさ」
飛雄馬は部員らが何やら耳打ちする言葉を無視し、伴にキャッチャーマスクをかぶるように伝えると、まずは第一球を左腕から放った。
「ふぎゃ!」
構えもままならぬまま、伴の腹に球はぶつかり、防具に当たって跳ね返る。
「伴、お前は何をしにここに来た。本気でやれ」
「うう……」
伴が拾い、投げ返してきた球を右手のグラブで受けると、飛雄馬はそれを再び放った。
今度はキャッチャーマスクにぶつかり、伴は顔を押さえてうずくまる。
そんなことを今日は何度繰り返しただろうか。
もう日が暮れ、そろそろ帰ろうか、なんて他にグラウンドを使う部活動生の声が聞こえる中、ここに来て初めて伴の構えたキャッチャーミットのど真ん中に飛雄馬の球が吸い寄せられた。
一瞬、間があったが、飛雄馬は震える手で投げ返してきた伴の投球を受け、もう一度、先程の捕球がまぐれでないことを証明するたびに振りかぶる。
すると二度目の投球も伴は見事受け留めたかと思うや否や、キャッチャーマスクを投げ捨て、何やら飛雄馬のもとに駆け寄るとその小さな体を抱き締めた。
「…………!」
なんて熱くて、大きいんだ伴の体は。
飛雄馬はあまりのことに息を呑み、伴に抱かれたまま目を大きく見開く。
ねえちゃんのそれとも、朧気に覚えているかあちゃんのそれとも違う。
こんなに大きな図体をしておきながら、おれを抱く腕は優しくて、あたたかくて、それで……。
ぽろり、と飛雄馬の双眸から溢れた涙が頬を滑った。
「やった!やったぞ星!おれ──ん?」
ようやく伴は飛雄馬の体を解放してくれたが、その瞳に浮かぶ涙を訝しんだようで、首を傾げた。
「な、なんでもない!あっちに行ってくれ」
飛雄馬は伴を押し退け、今日はこれで終わろう、と言うなり、もう建ち並ぶ家々の背後に沈みゆく太陽を背に歩き出す──。

そんなことを、今更思い出して何になるというのだ。
飛雄馬はあの頃とは違う、密集した住宅街もない、東京タワーも存在しない、地方の片田舎で今にも山の谷間に身を隠そうとする夕日を眺めつつ、ふっ、と唇を笑みの形に歪めた。
既に闇に包まれた空には、無数の星が瞬いている。
風の噂で伴はとうちゃん、いや、親父や阪神の花形はあれ以来、野球を辞めたと聞いた。
もう伴のミット相手に球を投げることもない。
あのおれを鋭く見つめてくる花形の目に気圧されることもない。
二度と、親父に会うこともないだろう。
ただ、元気でいてほしいと願うのはおれのエゴか。
まだ、郷愁を懐かしむ感傷的なところがおれにも残っているのだな。
こんなことを考えるのは、夏が終わり、秋がそこまで来ているからだろうか。
あの、おれを熱く抱き締めてきた腕が恋しいとでも言うのだろうか。
おれは伴に出会って、変われたと思ったのに。
飛雄馬は首を振り、立ち止まっていた足で再び歩み出す。
宛もなく、今はただ、ひたすらに──。