軒下
軒下 降られてしまったな、と飛雄馬は煙草屋の軒下に身を寄せる。日雇い労働の帰り、どこかで食事でもして帰るかと思った矢先の雨。
店仕舞いをして数年経つのか、辺りに人の気配はなく、煙草屋の看板は辛うじて残っているが建物自体はほとんど廃屋に近い。
しばらく、様子を見ることにしよう、と飛雄馬はアスファルトの地面を叩く雨の音に耳を澄ませ、ふう、と溜息を吐くと腕を組む。
すると、アスファルトの表面に僅かに溜まった雨をバシャバシャと跳ね上げながら近付いてくる気配があって、ははあ、おれ同様に雨に降られた人間がいるのだな、と飛雄馬は何気なくそちらに視線を遣った。
「まったく、急に降りおって……」
その、ぶつぶつと口元で独り言を囁く横顔に飛雄馬は見覚えがあって、ふと、三つ揃えのスーツを今や見る影もなく雨に濡らした彼からに背を向ける。
駆け出してこの場を去ってしまおうか。
しかし、行く当てもない。
幸か不幸か彼はおれには気付いていない。
ここは他人の振りを決め込むのが最善だろう。
飛雄馬は口を噤んだまま、一向に止む気配のない雨の滴の軌跡をじっと見つめている。
「しかし、降りますのう」
「…………」
ぴく、と飛雄馬はふいにかけられた声にサングラスの奥で瞳を動かしたが、口を開くことはしない。
「この調子じゃとしばらく降るかもしれませんのう。腹も減ったっちゅうのにとんだ災難ですわい」
飛雄馬に何やら話を振る彼──伴はぐう〜と間の抜けた声を上げた虫が潜む腹を叩くと、手首に巻かれた腕時計を見下ろす。
「…………」
「星?」
飛雄馬は呼ばれた名に、思わず反応しそうになるのをすんでのところで堪え、さっきから馴れ馴れしくないか、と低い声で伴のこれまでの言動を咎めた。
「あ、いや、すまん。人違いだったようじゃわい。あんたが昔の知り合いに似とるもんでついつい……人恋しいのもあってじゃな」
「人恋しい?でかい図体の割に女々しいことを言うんだな」
「そ、そこまで言われる筋合いはないわい!!」
「……雨の日は、余計に寂しくなるな」
煽るような言葉にカチンと来たか伴が声を荒らげるのを聞き流しつつ、飛雄馬はぽつり、とほとんど無意識に心情を吐露する。
言い終えたあと、しまった!と隣に立つ伴を見据えたが、しっかり聞かれてしまっていたらしく、大きな瞳を更に大きく見開いた顔がそこにはあって、飛雄馬は、ふっ、と小さく笑みをその口元に湛えた。
「なんじゃ、お互い似た者同士じゃのう」
「雰囲気に当てられたらしい。この閉塞した環境と雨の音、それにあんたの存在。皆どこぞで雨宿りでもしているのかさっきから人も車も通りはしない」
「今、この世にはわしとあんたのふたりきりかもしれんぞ」
「ふふ、顔に似合わず詩人だな」
「……雨がずっと降り続けてくれたらええのに」
「…………」
もしかすると、伴は気付いているんだろうか。
おれは気付いてほしくて、こんなことをつい口走ってしまったんだろうか。
「なあ、サングラスを取ってくれんか」
「それは無理な注文だな」
伴の申し出を躱しはしたが、濡れた肌に今更震えが訪れた。飛雄馬は身震いすると、寒さのあまり鳥肌の立った腕をさすった。
「寒いか」
「…………」
顔を逸らしたまま、飛雄馬は答えない。
「ここにいても埒が明かんじゃろう。どこか雨を凌げる場所を探そう」
「いい。構うな」
「しかし」
「それなら目を閉じろ」
「目?」
伴が訝しみつつも目を閉じたところに飛雄馬は爪先立ちになり若干背伸びをすると、ほんの少し顔を傾けてから、彼の唇にそっと自分のそれを押し当てた。
「えっ!?」
「…………」
飛雄馬はそのまま、伴には目もくれず雨の中を駆け出す。背後では何やら雨を跳ね上げ停車した車のブレーキ音と、伴を常務と呼ぶ声が聞こえはしたが、なりふり構わず駆けた。
冷えた体もお陰で暖まったようで、飛雄馬は少し入り組んだ住宅街の路地に入ると、初めてそこで雨足が弱くなりつつあることに気付く。
ふと空を見上げれば、雲の切れ間からは沈みかけの夕日が顔を覗かせつつある。
偶然とは言え、まさかこんな辺鄙な場所で伴と巡り会うとは、降られた雨同様、とんだ災難──だろうな。 飛雄馬はひとまず、濡れた服を乾かすためにもどこか宿を探そう、と再び歩み始める。
生きていれば、またどこかで会うかもしれん。
縁が、どこかで繋がっていればまたきっと会う日もあるだろう。
飛雄馬は伴の名を小さく口にすると、すっかり雨が上がり、虹のかかった空を見上げた。