匂い
匂い 早く、帰ってくれないだろうか、と飛雄馬は寮の自室のベッドの上で本日、何度目になるかわからぬ溜息を吐く。飛雄馬はこの日、朝食もトレーニングも済ませたのち、各自自由時間となったところで、少し外を散歩がてらスポーツ用品店でも覗いてくるかと部屋着から外出の服装に着替え、部屋の外に出た。
昼食までの時間が空いているのは久方ぶりのことで、愛用している靴下も補修しながら履いては来たが、そろそろ買い替えどきだな、何足か買っておこう、などと言った逸る気持ちを抱きつつ飛雄馬は顔を綻ばせる。しかしてそれも束の間のこと、飛雄馬は玄関先で寮長と、事もあろうに義兄が話し込んでいるのに気付き、慌てて部屋へ逃げ帰ったのである。
それからベッドに横になったり、私物の整理整頓を行うなどしてもう三十分になるか。
寮長がオニイサマがいらしたぞ〜などと大声を掛けてくるものとばかり思っていたが、幸か不幸かその不安が実現することはなかったが────。
部屋の前を行き来する先輩らの会話から、義兄が──花形がまだ玄関先にいることが伺え、飛雄馬はまたしても溜息を吐く。何の用事か知らんが、電話ではいけなかったのだろうか。それに、ヤクルトの選手が巨人の寮に訪ねてくるなんておかしいだろうに。
寮長が口を滑らせ、球団の機密事項を漏らすなんてことはないとは思うが、長島さんに話して即刻辞めさせるべきだろう。いやしかし、そんなことで長島さんの悩みを増やすわけには……。
飛雄馬がベッドの端に腰掛け、頭を痛めていると突如として部屋の扉がノックされ、ギクリ、と身を強張らせる羽目になる。
「…………」
花形さんか、いやまさか、寮長だろうか。
もしや長島さんでは…………。
飛雄馬はノックの後、声を掛けてくるでもなく、扉の向こうに佇む人物の顔を様々に思い浮かべ、決死の思いで、どうぞ、と入室を許可する声を発する。
「おう、すまん。起きとったか。花形のやつはもう帰ったぞ」
返事がないから寝てしまったかと思ったぞ──開いた扉から顔を出した武宮寮長はからからと笑い、昼飯は?と尋ねた。
「ああ、それは……ご丁寧にありがとうございます。昼食は、止めておいてください」
まずは部屋まで呼びに来てくれた寮長に礼を言い、飛雄馬はそれなら昼食もどこかで済ませてこよう、と寮の食堂で提供される食事の昼食分を止めるように頼んだ。寮長は門限までには帰ってこいよと部屋を後にする飛雄馬の背中を叩き、飛雄馬もまた、夕飯までには帰ります、と返した。
「星の兄さんはよほどお前のことが好きなんだな」
「はあ?」
玄関まで連れたって歩く道中、寮長がぽつりと溢した一言に、飛雄馬は思わず間の抜けた返事をする。
そうしてすぐさま、すみません、と訂正し、兄は何と?と訊き返す。
「お前のことをくれぐれもよろしくとわざわざ挨拶に来たのさ。心配性なのか過保護なのか、ハハハ」
「…………」
花形さんと来たらわざわざそんなことを……有難迷惑とは正にこのこと。気持ちは嬉しいが、そう年も変わらぬと言うのに、変わった人だ。
「ああ、そうだ。それで星よ、すまんが花形のやつ、ネクタイピンを落として帰ってな。珍しい、花形がそんなヘマをするとはな。ついでに持っていってやってくれんか」
「…………!」
一度、寮長室に引き返し、再び顔を出した寮長が手にしていた品を飛雄馬は受け取ったものの、思わずその場に固まる。
まさか、素直に引き下がるとは思っていなかったが、こんな罠を仕掛けていくとは──いや、考えすぎだ。
弘法も筆の誤まり──千慮の一失と言うじゃないか。あの花形さんにだって、こんな一面があっていいはず。有難迷惑とは思いはしたが、おれのためを思ってしてくれたことに報いたい気持ちはある。
罠だなんて、おれはなんて酷いことを考えてしまったのだろう。花形さんに対し、あまりに失礼だ。
飛雄馬はわかりました、と受け取ったネクタイピン掌に握り込むと、失礼します、と寮長に頭を下げてから寮を後にする。
予定が少し狂ってしまったが仕方がない。
まずはタクシーを捕まえ、花形さんの屋敷に向かわねば。願わくば、屋敷にはねえちゃんも花形さんも不在で、お手伝いさんだけがいてくれると良いのだが。
飛雄馬は寮から少し歩いた先にある大通りでタクシーに乗り込むと、花形邸の住所を運転手へと伝えた。
野球好きの運転手宛にサインを書いたり、今後の試合展開などについても少し話をしたが、そちらの方が今の飛雄馬からすれば気が紛れ、却って良い結果を招いた。程なく、タクシーは花形邸へと到着し、飛雄馬は自分を応援してくれるという運転手へ料金を払うと、礼を述べてから地面へと降り立つ。
いつ来ても夫婦ふたりで住むには広すぎる、この大豪邸の佇まいには気圧されてしまう。
姉夫婦の間に子供でもいれば、この悠悠とした庭で広々とのびのび遊ぶことが出来て良いのだろうが、一向に懐妊の便りは聞こえてこない。
それはふたりの問題だし、弟のおれが口出しすることではないが、花形さんが球界入りし、これまで以上に家を空けることが増えたであろうことを思うと、ひとり残されたねえちゃんが不憫でならない。
まあ、いい、他人の家庭に口を挟むべきではない。
今は一刻も早くこの品を、持ち主に返さなければ。
飛雄馬は玄関先に佇み、キッ、とその大きな扉を睨みつけてからチャイムを押す。
甲高いメロディが辺りには流れ、廊下をスリッパを履いた足でパタパタと駆ける音が聞こえた。
すると、そう間を置かず、扉が開いて、飛雄馬はどうも──と会釈したものの、顔を出した人物の正体に気付くと、息を呑み、ほんの少しその場から後退る。
「おや──飛雄馬くん。どうしたのかね。どういう風の吹き回しでここへ?」
にやり、と独特の笑みを口元に携え、こちらを見つめてくる彼から飛雄馬は視線を逸らし、忘れ物を届けに来ただけだ、と冷たく言い放つと、スラックスのポケットに忍ばせていたネクタイピンを取り出す。
「忘れ物?」
はて、と怪訝な表情を浮かべ、ネクタイピンを受け取った彼──花形は合点がいったか、ああ、と微笑み、どこかで落としたとは思っていたが、きみのところだったかい、と呟いて羽織るジャケットの胸ポケットへとそれを滑らせた。
「用件はそれだけだ。ねえちゃんにもよろしく」
踵を返し、そのまま一目散に駆け出そうとしたものの、飛雄馬は腕を掴まれ──思わず背後を振り返る。
「待ちたまえ飛雄馬くん。せっかく来てくれたのだから上がって行くといい」
「っ、……遠慮させてもらう。行きたい場所がある」
「行きたい場所?車を出そうか」
「離してくれ!」
勢いをつけ、腕を振り解くと、容易く花形の手は離れていき、飛雄馬は思わず拍子抜けした。
が、安堵したことも事実で、ホッと胸を撫で下ろす。
「……フフッ、相変わらずだね、きみも。ぼくひとりと知るや否やその拒みよう。明子はあいにく外出中でね」
「ねえちゃんは関係ない。それに、用事もないのに無遠慮に人の家に上がり込む方がおかしいだろう」
「ぼくがいいと言っているのにかい。伴くんの家にはよく遊びに言っていると聞いたが。親友の家と姉夫婦の家、何が違うのかね」
「今のあなたはヤクルトから球界に復帰したおれのライバルだろう。何故あなたと馴れ合わなければならん。他の皆はどうだか知らんが、おれはそんな器用な真似はできない」
「……馴れ合うつもりで上がってくれと言ったつもりはないが。ずいぶんと身持ちが固い」
花形の言葉に飛雄馬は頬を染め、ぐっと押し黙る。
フフ、と花形は再び笑みを浮かべると、上がるかね、と飛雄馬を誘うような台詞を吐いた。
「……遠慮、っしておく。花形さんに何と言われようとおれは────」
言いかけた飛雄馬だったが、その腕をまたしても花形に掴まれ──今度は引き寄せられるがままに屋敷の中へと足を踏み入れる。
花形の腕の中に抱き寄せられ、飛雄馬は背後で扉が閉まる音を聞く。
「な、っ…………!」
驚き、薄く開いた唇に花形のそれがほとんど不意打ちに近い形で触れ、飛雄馬は、うっ!と短く呻いた。
いつの間にか、花形の両手で顔を掴まれており、逃げることも唇を離すことも叶わないまま、飛雄馬は玄関先で身をよじる。
聞えよがしにリップ音を立て、唇を啄む花形から逃れようと飛雄馬は自分の両頬を覆う手、その手首を掴むが、口内をゆっくりと愛撫する舌に肌を粟立たせるばかりとなる。
「…………」
「あ、っ……う、ぅっ」
ねっとりと絡む舌に、自分の体の体温がみるみるうちに上昇し、スラックスの奥、下着の中が膨らみつつあるのを飛雄馬は自覚する。と、花形の指先が耳の溝を撫で、飛雄馬はビクン!と大きく体を震わせた。
「フフッ……いいね、飛雄馬くんは、実にわかりやすい」
頬に口付けられて、飛雄馬は小さく声を漏らすと、来たまえ、の声に思わず立ちすくむ。
逃げ出すなら今しかない。
おれはこんなことをするために来たんじゃない。
それに、ねえちゃんにこのことが知れたらどうなる。
そんな危険を侵す必要も、理由もない。
目的は果たしたはず。
「何か理由がほしい。自分の意志ではなく、誰かに強要されたと、そう思い込みたい」
「ばっ、馬鹿な……そういう問題では」
「初めからそのつもりで来たんだろう。自分に言い訳をして、花形さんには会いたくないと嘘をつきながら」
「ちがう……!それこそ花形さんの、っ、思い込み、っ…………」
顎先に指をかけられ、飛雄馬は身を強張らせる。
顎に触れていた花形の親指が唇をなぞったかと思うと、開いた口内にゆっくり、侵入してきた。
「自分に素直になりたまえ」
指の腹が、頬の粘膜を優しく撫でる。
「ふ…………、ぅ、」
一度は収まりかけた熱が再び、体へと灯る。
「飛雄馬くんはぼくのこと嫌いかい」
「ん、ん……っ、」
指が舌の表面を撫で、飛雄馬はぞくっ、と体を戦慄かせた。指は奥歯に触れ、頬との境目をゆっくりと撫でてからようやく飛雄馬の口から離れていく。
かと思えば、未だ指の感触の残る唇に口付けられ、飛雄馬は自分の体を抱く腕に指を這わせた。
先程よりも深く、そして濃い口付けに飛雄馬は立っているのがやっとであり、花形の掌が自分の尻を撫でたことで、スラックスの中、その一部を更に張りつめらせる。
「場所を変えよう、飛雄馬くん。こんなところで抱かれるのはきみも、嫌だろう」
「っ…………」
唇を離された代わりに手が握られたかと思うと、花形はそれを顔の高さまで挙げるや否や、手の甲へと口付けてきた。唇の熱さがそこから全身にじわりと滲む。
「靴を脱ぎたまえ」
「………………」
いけない、花形さんに、飲まれてしまっては。
そう、頭ではわかっているのに、どうしておれは彼に言われるがままに靴を脱いでしまっているのか。
飛雄馬は玄関先で靴を脱ぐと、花形に導かれるままに、屋敷に入ってしばらく歩いた先、大きなベッドの置かれた部屋への入室を許される。
綺麗に整頓された部屋、微かに鼻をくすぐるはどこか懐かしい香り──どこかで嗅いだことのある──。
飛雄馬はあまり光の入らぬ薄暗い部屋、そのベッドの上へと促されるままに腰を下ろし、再び、花形の口付けを受けた。そうしてベッドへと押し倒され、スプリングが軋む感触を背中へと感じる。
自分の体の熱で、ベッドがゆっくりと温まっていく。
花形の口付けを受けつつ、飛雄馬は身に着けているシャツの中に彼の手が滑り込んだことに体を震わせる。 その指先は腹を撫で、胸の上を滑りながら、その先にある突起へと触れた。
「あ、ぅ……、っ!」
顔を背け、飛雄馬は花形の指が触れた箇所から全身に広がる甘い疼きに声を上げる。
そっと唇を啄まれ、胸の突起を指で抓られて、飛雄馬は強く奥歯を噛み締めた。
と、仰け反った首筋に花形の唇が触れ、ゆっくりと胸の方へと下っていく。
「力を抜いて。緊張しなくていい」
「っ……、」
指で弄られ、僅かに尖った突起を吸い付かれて、飛雄馬はビクッ、と花形の体の下でその身を跳ねさせた。
そうして、その瞬間に、部屋に入った際に感じた懐かしい匂いが──何の香りであったかを鮮明に思い出す。これは、ねえちゃんの匂いだ。
スラックスの上から布地を持ち上げるもの、を撫でられ、飛雄馬は再び体を震わせる。
「脱ごうか、飛雄馬くん。腰を上げて」
「っ、花形さっ……ここっ、この部屋はっ…………」
スラックスを引き抜こうとする花形を制し、飛雄馬は彼の体を腕で押し退ける。
ここは、花形さんに尋ねるまでもない──夫婦の寝室で間違いない。いつだったか客人用だと通された部屋のベッドよりもここに置かれているものは広く、そして置かれている枕の数もふたつ。
何より、体を横たえていたベッドには姉の匂いが残っている。
「……今頃気付いたのかね」
「なぜ、この部屋に……おれを通した」
「これと言って理由はないが。玄関から一番近かった部屋がここだっただけのこと」
「よりによって、こんな部屋……っ、ねえちゃんに悪いとは思わないのか」
「…………」
花形の表情が曇ったのを受け、飛雄馬はひとまず安堵すると、ベッドから体を起こしつつ、おれに構う暇があったらねえちゃんとの時間を大切にしてくれ、と囁く。ただでさえ花形さんが球界入りしてからねえちゃんは寂しそうだから、と続けると、乱れた衣服を整え、ベッドの上に腰掛ける。
すると花形がおもむろに首元のネクタイを緩めるのが目に入って、飛雄馬は一瞬、身構えたが、彼がそれきり、何もしてこないのを見て、ほっと溜息を吐いた。
「明子にはまったく悪いとは思わんがね。謝るのはきみの方だろう。ぼくを復帰させるよう仕向けたのは飛雄馬くんなのだから」
「仕向けただなんて、っ、おれは頼んだ覚えは……」
「飛雄馬くんはどれだけの人を不幸にすれば気が済むのかね。他人の人生を狂わせておいて自分ひとり涼しい顔をして、どういうつもりなのか」
「不幸…………?」
動揺し、二の句が告げない飛雄馬に、花形が忍び寄る。
「姉の身を案じるのであれば帰ってこなければよかった。そうすれば明子は心を痛め、眠れぬ日々を送ることもなかっただろう。伴くんやぼくたちだって平穏な日々をこれまで通り過ごすことができた」
「…………!」
「長島さんの力になりたいとそう思ってきみは戻ってきたのだろう。その心掛け、思いやりには敬服するが、ぼくとしては────」
「花形さんでも、っ、それ以上言うとただでは置かない!人を虚仮にするのはいい加減にしてくれ!」
「そんなふうに聞こえたかね」
ニッ、と花形が微笑み、ベッドの上に座る飛雄馬の腿を掌でゆるりと撫でた。
「う、ぅっ……」
着ているシャツ、その中に下着代わりに着込むタンクトップが汗で背中に貼り付く。
飛雄馬は身動きの取れぬまま、花形に唇を塞がれ、再びベッドの上へと押し倒される。
「進むも地獄、退くも地獄とはよく言ったものだね飛雄馬くん。フフフ……」
「また、妙なことを…………っ、」
花形を睨み付け、飛雄馬は吐き捨てた。
フフッ、と花形はまたしても意味ありげに微笑むと、飛雄馬の額に口付けを落とし、スラックスを留めるベルトへと手を伸ばす。
「馬鹿なことはやめろ、花形さん!」
バックルからベルトが抜け、僅かに余裕の出来たスラックスの中に花形の手が滑り込んだ。
一度、萎えはしたが、再び首をもたげつつあるそれを掌全体で撫で上げられ、飛雄馬は背中を反らすと、苦痛と羞恥、そして自己嫌悪の念から眉間に皺を寄せる。地獄が何であるか、この人は知っているのか。
そもそも、花形さんの言う地獄とは一体、何なのか。
おれはただ、長島さんの、巨人のために…………。
膨らみつつあった下腹部を握られたばかりか、それを一息に擦られて飛雄馬は声を上げ、口元を腕で覆う。
「腰を上げて。脱いでしまった方がいい」
「…………!!」
飛雄馬は、嫌だとばかりに顔を横に振り、口元ばかりか目元までを腕で覆い隠し、口を噤む。
しかして、それが隙となったか──花形の手がその二本の腕を跳ね除け、飛雄馬の頭上、ベッドの上へと押し付けた。
「壊れた腕では抗いもできんとはね。これで一度は打者として復帰するつもりだったのだから人間の一念とは恐ろしい」
「離せ、花形さっ……っ、」
「痛い?そう力は込めていないが」
「い、っ……馬鹿なっ、これで、」
びくともしない両腕にばかり集中していると、臍下に新たな刺激が与えられ、飛雄馬は、あっ!と思わず大きな声を上げる。
臍下のそれを上下にしごかれて、恥ずかしさから目を閉じると体をよじり、花形から顔を背けた。
すると、それに乗じるようにして下着とスラックスとを両足から膝まで一気に引きずり下ろされることとなって、飛雄馬は目を開け、花形を睨む。
すべて花形さんの思い通りに事が運んでいってしまう。あの余裕の表情を見るにつけ、何もかもが想定のうちなのだろう。
この男に、会わなければおれはもしかすると左腕を壊さず済んだかも知れない。いいや、この男が幼少期のおれに勝負を挑んでこなかったら、おれは野球なんてとっくに辞めていたかもしれない。
彼が王さんに、引き合わせてくれなかったら……。
おれを地獄に引きずり込んだのは、花形さんじゃないか。それをなぜ、あなたはおれのせいにする。
「っ、手を……離してくれ、花形さん!あなたも野球をする人間なら、どれほどこの腕が大事かわかるだろう!」
飛雄馬がそう、叫ぶと、花形は腕を解放してくれたが、その代わり、膝で止まっていたスラックスと下着類を足から抜き取られ、その両足の間に彼を招き入れることとなった。
腹の上に乗る、未だ立ったままのそれ、の存在が恨めしく、飛雄馬はついと顔を逸らすと、自分の膝を曲げ、足を左右に押し広げて、距離を詰めてきた花形の気配に視線を泳がせる。
「ベッドを汚さないようにしてくれたまえ。明子に気付かれたくないのであればね」
「っ、この……、悪魔め!」
花形が彼自身の指を二本、口に運ぶのを飛雄馬は見上げ、それに唾液を絡ませる様を見つめる。
ああ、あの指が、今からおれを犯すのだと、嫌でも自覚させられる。見なければいい、ここから逃げ出せばいい。ただそれだけのことなのに。
体が、やけに熱を持つのは、ねえちゃんの香りを感じるからか。
「ぼくの前でそんな顔を晒していいのかい、飛雄馬くん」
「…………!」
ハッ、と花形の言葉に、飛雄馬が我に返った刹那、唾液に濡れた指が尻の入口を撫でた。
腹の中がぞくりと疼いて、入口が期待に戦慄いたのがわかる。飛雄馬はそのままゆっくりと腹の中に入り込んできた指に眉をひそめ、口元に遣った手で拳を握った。間髪入れず、二本目の指が腹の中を探りに来る。
入口を解すように浅い位置を指は撫で、そこを広げるように指を動かす。
「ふ……っう……っ」
ぐるりと中で指を回され、飛雄馬は立てた膝、その先にある爪先でベッドを掻く。
「どこがいい?もう少し奥の方かい」
「ん、ん……っ、」
入口付近を撫でていた指が中へと入り込み、前立腺の上を掠めた。
うあっ!と今までにない大きな声が口からは上がり、飛雄馬はぴくりと一度は萎えた臍下が熱を帯び始めるのを感じる。
「いいね、飛雄馬くん。その目……」
指が抜かれ、代わりにあてがわれたものに飛雄馬は身構え、口元に遣った手、拳を強く握り締める。
「っ、く…………ぅ、う」
「目を閉じないで、ぼくを見て」
入口に押し当てられた熱が、そこを広げ、腹の中を突き進む。飛雄馬は花形に言われるがままに彼の顔を見上げ、少しずつ中を犯していく質量に耐えかね、瞳に涙を滲ませる。
その花形の一部が、ゆっくり、ゆっくり腹の中を侵食していくのに従って、飛雄馬は先程の前立腺の疼きとも言えぬ、奇妙な感覚が蘇るのを感じ、嫌だ、と頼りなくか細い声を上げた。
「あ、ぁっ…………あ、ぁ、!!」
そうして辿り着かれた場所を、花形に突き上げられ、飛雄馬は声を上げると共に、絶頂を迎える。
とろとろと飛雄馬の腹の上には、射精を促された精液がその男根の先から滴り落ちた。
視界はぼやけ、頭の中には薄ぼんやりと霞がかかったようになる。
「口を開けて、舌を出してごらんよ飛雄馬くん」
「は…………っ、っちゅ、ふ……」
わけもわからぬままに口を開け、そこから舌を覗かせた飛雄馬の唇に、花形は吸い付くとゆっくりと腰を動かす。先程、骨を軋ませるほど強く腕を握った指は飛雄馬のそれに絡められ、腹の中をゆるゆると探る。
ゆるい快楽の波が、腹の中から全身に伝わって、飛雄馬は半ば夢心地の状態で花形に抱かれている。
汗の滲んだ首筋に舌が這って、そこに鈍い痛みが走る。それが、花形の唇が薄い皮膚を吸い上げた際に付けた痕だと知るのはまだしばらく先のこと。
自分の汗に混ざった、姉の匂いに飛雄馬はぞくぞくと肌が粟立つのを感じる。
「花形さっ…………!」
「…………」
指を絡めた手の力が強くなり、飛雄馬は花形もまた、絶頂を迎えそうなことを知る。
そうして、再び、深い口付けを受けながら腹の中へと出された欲に身を震わせた。
「…………はぁっ、」
飛雄馬は花形がようやく、離れていってくれたことに溜息を吐くと、ベッドを汚さぬよう、うつ伏せの格好を取る。
そこでまた姉の匂いに感じ取り、飛雄馬は瞳に涙を滲ませたが、花形に悟られまいとその場に顔を埋める。
「…………送ろう、飛雄馬くん。支度をしたまえ」
「ふふ……もう用済みですか。事が済んだら出て行けと、花形さんはそう言うのか」
掠れる声で花形を揶揄し、飛雄馬は手探りで頭の近くに置かれていたティッシュの箱を探し当てると、中から数枚取り出したそれで自分の尻を拭う。
「……気の済むまでここにいるといい。ぼくは大歓迎だが」
「出来れば、もうここへひとりでは二度と来たくない」
吐き捨て、飛雄馬はベッドの端に無造作に置かれていた下着とスラックスを身に着けると、手を差し伸べてきた花形を見ないふりをして部屋の出入口へと向かった。腕には思ったほど痛みは残っておらず、飛雄馬が安堵したのも束の間、ドアノブを後ろから握られ、為す術なくその場に立ちすくむ。
「悪い冗談はよせ、花形さん。これいっ……っ、」
音もなく、背後から忍び寄ってきた腕、その指先が首筋を滑り、顎先を捉えたかと思うと唇をなぞる。
ぞくり、と先程の熱が蘇る気がして、飛雄馬は口の中に滑り込む指に素直に身を委ねた。
しかして、それも扉の向こうから姉の声が聞こえたことにより中断を余儀なくされる。
とは言え、飛雄馬からすればまさしく地獄に仏であった。
「……先に外で待っていたまえ」
言うと花形は扉を開け、部屋の外へと躍り出る。
「…………」
「…………」
何を話しているかまでは聞こえぬが、飛雄馬はふたりの声が完全に聞こえなくなったのを見計らってから部屋を出た。物音ひとつしない広い廊下。
来た道を引き返し、飛雄馬は綺麗に揃えられていた自分の靴に足を通すと、玄関の扉を開ける。
花形さんは今頃、ねえちゃんに玄関先にあった見慣れぬ靴の言い訳でもしているのだろうか。
ああ、それにしても腹が減った。どこかで昼食としなければ。
飛雄馬は花形が来ぬ間にこの敷地を後にしよう、と歩き出す。日がもうあんなに高くなっている。
背後を振り返っても、花形さんが追ってきている気配はない。
「…………」
おれが行っていることは、間違いなのだろうか。
いいやそんなことはない。
花形さんの言うことなど、信じてはいけない。
飛雄馬は首を振ると、天高く昇った太陽の光を腕で遮りながら、ただ、ひたすらに歩いた。