日常
日常 「それでな、伴……」
飛雄馬はグラブを磨く手を止め、呼びかけに対し応答がないことに気付くと顔を上げ、名を呼んだ彼の方に視線を遣った。
昼食を食べ、クラウンマンションの飛雄馬の部屋に戻ってきてまだほんの、10分程度しか経っていないにも関わらず、ソファーに深々と腰掛けた彼は目を閉じ、肘掛けを枕に体を座面へと投げ出してすっかり寝入ってしまっている。
飛雄馬は少々、面食らったものの、ここのところずっと練習に付き合わせていたしな、と己の親友への接し方を反省し、何か体にかけてやるべく絨毯敷きの床から立ち上がった。
せっかくの休日だというのに、疲れているのならそう言ってくれたら良かったのに、と飛雄馬は自分の寝室から持ち寄った布団を彼の体にかけてやった。
そうして、再び床に座り、グラブ磨きを再開させながらふと、思案する。
伴は、いつもおれに付き合ってくれるが、たまには自分のことに時間を使えばいいのに、と思う。
時折、親父に呼ばれて、とふらりと姿を消すことがあるくらいで、それ以外はいつもおれのそばにいてくれる。
ありがたいし、嬉しいことなのだが、もしかすると彼に無理をさせているのではないか、と考えんでもない。
柔道はあれきりやめたと言うが、本屋で足を止め、眺めているのは柔道関連の雑誌だし、何だかんだ言いながらも未練があるのではないかと感じることが度々あるのだ。
いくつも賞を取ったと話してくれたことがあるし、やはり柔道の話をしてくれる彼の瞳はいつも以上に輝いているように思う。
「…………」
伴はおれを優しい男だと言ってくれるが、おれは伴に甘えているに過ぎない。
伴がいなければおれは何にも出来やしないんだ。
きみがおれのことをどう思ってくれているかなんて、おれには分かりようもないが、伴はおれにはなくてはならない存在なのだ。
おれの境遇を、生い立ちを、辛かったな、今までよく頑張ったな、と言ってくれたのは伴だけだ。
こんなこと、口に出してしまえばきっと、気味悪がられるに違いない。
だからおれはただ、きみにいつもありがとう、とだけ言うに留めている。
飛雄馬が一心不乱にグラブを磨き続け、一段落ついたところで休憩しようかと腰を上げかけた刹那に、玄関の扉が開くなり、ただいまと姉が顔を出したもので、ねえちゃん、おかえりと声をかけた。
「あら、伴さん来てたのね」
「うん。今は寝ちゃってるけどさ」
「飛雄馬ったら……あんまり伴さんに甘えちゃダメよ」
「あ、甘えてなんか!」
買い物から帰った姉・明子にそう諭され、飛雄馬はかあっと頬を染める。
「まるで恋人同士みたいね、あなたたち。いつも一緒で羨ましいくらいだわ」
「なんだそれ、ねえちゃん。恋人はないだろう」
「うふふ、ごめんなさい。気を悪くさせたかしら」
買ってきた食材や雑貨を戸棚や冷蔵庫に仕舞いながら明子が笑う。
「……夕飯、伴にも食べてもらってもいいかな」
「そのつもりで少し多めに買い物してきたから。ちょっと早いけど、夕飯の支度するから手伝ってちょうだい」
はぁい、と飛雄馬は返事をし、明子に米は何合仕込むの?と尋ねた。
幼少期から姉の手伝いを買って出ていた飛雄馬にとって、家事全般をこなすことは苦ではない。
並大抵のことならひとりでこなせるし、明子がバイトの際、飛雄馬の手が空いていることがあれば飛雄馬が食事係を担うこともあるくらいだ。
「そうね、カレーにするから3合くらいかしら」
「カレーなら4合くらいがいいんじゃないか。伴もいるし」
「じゃあそうしましょう」
頷いて、飛雄馬は米櫃から4合分の米をザルに移し替えると、それを水道の水で上手に研いでいく。
隣では包丁片手に明子がカレーに入れる野菜類を刻んでいく。
平和と言えばそうだろう。
男が台所に立つものではないと叱咤してきた父は今現在、カージナルスから呼び寄せたオズマと共に愛知にいるのだから。
「…………」
「ふわぁあぁ」
突如リビングから聞こえた声に作業に集中していた明子と飛雄馬はビク!と体を跳ねさせ、声の主が伴宙太であることに気付くと、再び作業を続ける。
飛雄馬は炊飯器の釜に研いだ米を移し替え、水を分量通り入れ、スイッチを押す。
「伴、起きたのか」
「お、星。そこにおったのかあ。明子さんもご機嫌麗しゅう」
「ふふ、嫌だわ。伴さんたら寝ぼけちゃって」
くすくす、と明子が伴の冗談に笑みを浮かべる。
「今日はカレーですか」
「ええ、そうなの。伴さんも食べて帰ってちょうだいね」
「い、いいんですかい!うほほ〜い!明子さんのカレーは天下一品ですからのう」
まったく、また調子のいいことを言ってと飛雄馬は苦笑しながら、野菜を切り終え、肉と共に鍋で炒める作業に入った明子におれがやるよと交代を申し出、ねえちゃんは休んでおいてよとソファーに座ることを勧めた。
「で、でも……」
「伴の話し相手をしてやってくれよ、ねえちゃん」
言いつつ、飛雄馬は野菜類を炒め終えると、カレールーの外箱に書かれた水を分量通り鍋へと投入していく。
あとは鍋が沸騰し、野菜に火が通ったらルーを入れて完成である。
飛雄馬は楽しげに談笑する姉と親友の声を聞きながら、米が炊けるまでしばらくかかるだろうし、ふたりにコーヒーでも淹れてやろう、とカップをふたつ用意し、カレー鍋の隣のコンロに水を汲んだやかんを乗せた。
ずっと、こんな平穏な日々が続くといいのに、と飛雄馬は蓋をした鍋の中身がくつくつと煮える音を耳にしつつ、そんな、漠然とした想いを抱きながら台所にひとり、立ちすくんだ。