熱発
熱発 星、と呼ばれ、飛雄馬はぼんやりと目を開ける。
前日の練習でかいた汗が冷え、どうやら風邪をひいてしまったようで、飛雄馬はこの日、朝から自室に引き篭もり、ベッドに横になっていた。
一緒に着いて行ってあげるからと姉・明子に言われたが、一日寝てれば治るさと彼女の申し出を断り、今に至る。少しでもいいから食べなさいねと出されたお粥は手つかずのまま、テーブルに置かれている。
「ば、ん……?」
「ああ、いい!いい、起きんでええから寝とってくれえ」
この、慌てたような声は伴で間違いないな、と飛雄馬は言われたとおりに、目を閉じたまま起き上がることもせず微笑む。
すると、額に乗せていたタオルが冷たいものに代えられ、飛雄馬は無意識に口から大きな溜息を吐いた。
「…………」
「せっかく明子さんが作ってくれたっちゅうのにもったいないことをしおって」
「すまん……食欲が、なくてな」
「……監督たちも心配しとったぞい。日頃の無理が祟ったんじゃろ」
「ふふ……こんなことで体調を崩すとは、巨人の星はまだまだ遠いな……」
「しゃべらんでええ。いや、すまん。言い出しっぺはおれじゃい。今はしっかり休んで風邪を治すのが先決ぞい」
「…………」
火照った額に、冷水に浸され、固く絞られたタオルが心地好い。それにしても、わざわざ伴が来てくれるとは。監督さんたちに様子を見てこいとでも言われたのだろうか。ねえちゃんはもうバイトに行った頃だろうか。たくさんの人に迷惑を掛けてしまったな。
体の熱が額に乗せられたタオルのおかげで些か下がったようで、飛雄馬は再び訪れた睡魔に身を委ねた。


そのまま、すうすうと寝息を立て、寝入った飛雄馬を伴はしばらく見つめていたが、もう一度、額のタオルを交換してから部屋を後にした。
「飛雄馬、どうかしら」
リビングで、飛雄馬の姉、明子が戻ってきた伴にそう尋ねる。 「今は落ち着いて眠っておりますわい」
「そう……それならいいんだけど。あの子、よく無理をしてしまうから」
ぽつりと明子が呟き、テレビ前に置かれたソファーに座ったまま悲しげに目を伏せた。
「まったくですわい。自分の体のことは自分が一番よくわかっとるだろうに……明子さんもお休みください。星はおれが責任を持って看病します」
「伴さんこそ、お疲れではなくって?練習のあとでしょう」
「なに、おれは元気だけが取り柄ですわい」
ワハハ、と場を和ませるべく、大きな笑い声を上げた伴だったが、明子が微笑みもしないのを見て、気まずさに肩をすくめる。
「……ごめんなさい。伴さん、少しだけ、休ませていただいてもよくって?何かあったらすぐに呼んでちょうだいね」
明子はそう言うと、ソファーから腰を上げ、そそくさと自室へと引き篭もってしまった。
彼女も、弟の看病で疲弊しているのだろうな、と伴は誰もいない、がらんとしたリビングにひとり、佇む。
しかし、どうしたものか。星の部屋に戻るべきか。
ここでお呼びがかかるのを待つべきか。
「……ちゃん、ごめん……なさ」
ふと、声がしたような気がして、伴は、星?と名を呼ぶと、慌てて飛雄馬の部屋へと舞い戻った。
額に乗せたタオルは枕元へと落ちており、飛雄馬はうなされているのか、しきりに掲げた左腕で宙を掻いている。
「星?どうしたんじゃ、星」
「とうちゃん、ごめんなさい……これくらいで、寝込んで……っ、」
「…………」
星は、夢を見ているのだろうか。
とうちゃん──親父さんに、子供の頃にでも熱を出し寝込んだことを咎められでもしたのだろうか。
意識が朦朧とする中、星は投球練習に励んだとでも言うのだろうか。いや──全部これらはおれの推測にしか過ぎんが──それでも、あの親父さんを見ていると、まるっきりハズレというわけでもあるまい──。
「とうちゃん、がんばる、おれ、投げるから……とうちゃん、ねえ……とうちゃん」
「星!」
気付けば、無意識の内に伴は飛雄馬の名前を口にしており、驚き、目を開けた彼の傍らに歩み寄ると、もう、親父さんはここにはいないぞ、と極めて優しく、穏やかな口調で囁いた。
「あ……え……?伴?おれは、夢を……?」
「親父さんにしきりに謝っとったぞい」
「…………嫌な、ところを見られたな」
苦笑し、飛雄馬は寝返りを打つと伴に背を向ける。
「星、辛いときには休んでもええ。弱っとるときには弱音を吐いてもええ。親父さんの前じゃそれはできんかったかもしれんが、おれの前では、その……自分を偽る必要も、無理をする必要もないぞい」
「…………」
「なんて、臭かったのう。すまん、忘れてくれ。ともあれ、今はゆっくり休め」
飛雄馬からの返事はなく、伴は照れ臭さに頭を掻いた。そうして、居ても立ってもいられなくなって、向こうの部屋におるから、また何かあったら声を掛けてくれえ、とだけ言い残し、飛雄馬の部屋を出て行く。
去り際、ありがとう、と小さな、空耳かとも思えるほどに小さな飛雄馬の声が耳に入って、伴は、何と答えたらいいか分からず、振り向きもせず、リビングへと引き返した。
星は、どんな幼少期を過ごしたのだろう。
朝から晩まで野球漬けの毎日で、何を楽しみに、何を生き甲斐にし、日々を過ごしていたのだろう。
おれが柔道に明け暮れ、親父がPTA会長というだけで周りにへりくだられていた頃も、毎日毎日、野球、野球。おれのことを、初めてできた友達だと、星は言っていたか。
「少しでいいから、野球以外のことでも頼ってほしいがのう……」
独り言のように呟いて、伴はリビングのソファーに座すると、ふう、と息を吐いてから、項垂れる。
と、いつの間にか眠っていたらしく、何やらコーヒーの良い香りが鼻をくすぐり、何事かと顔を上げた。
「ああ、すまん。起こしてしまったか」
「ほ、星。きさま、熱は」
「きみのおかげでだいぶ下がってな。コーヒーでも飲もうかと」
ふと、壁に掛けられた時計を仰げば、間もなく午前一時を迎えようとしている。ここに来て、もう四時間も経っているとは夢にも思わず、伴は、ソファーでそんなに眠りこけていたのか、と自身の失態に赤面した。
ふいに視線を下げれば、体には毛布が掛けられており、伴は、これ……と歯切れ悪く呟くと、ふたつのマグカップを手にリビングへと戻ってきた飛雄馬を見つめた。
「ああ、さっき、な。あんな格好で寝ていたらきみが風邪をひくぞ」
コーヒー、と差し出しつつ、飛雄馬がカップに口につけ、伴の隣へと腰を下ろす。
「却って、邪魔をしにきたようじゃのう」
「いや、そんなことはないさ。伴が来てくれたおかげでねえちゃんも休むことができたし、おれも…………いや、こうして熱も下がったしな」
「それなら、いいんじゃが……」
コーヒーを啜り、伴はまたしても大きな溜息を吐いた。すると、隣に座っていた飛雄馬が口を開き、きみには私生活も、野球にしても色々と助けてもらっている。感謝してもしきれないくらいだ。これからもよろしく頼むぜ、女房役、と伴をからかった。
「ふ、ふん。言われなくてもそのつもりじゃい……」
込み上げた涙をコーヒーと共に啜って、伴は部屋で待ってるからな、と一足先に寝室に戻った飛雄馬の言葉を反芻しながらニヤニヤと顔を綻ばせる。
そうして、伴もまた、マグカップを空にすると、飛雄馬の待つ部屋に向かい、狭いベッドにふたり寝転んで暖を取りつつ寝入った。
それから数時間後に、飛雄馬の体調を心配し、電話を掛けてきた川上監督柄の着信に驚き、跳ね起きるまで、しばしふたり、束の間の休息を得たのだった。