願い
願い 「ねえ、飛雄馬。花形のことなんだけど──」
日中、用事を済ませようと街を歩いていた飛雄馬を呼び止め、強引に喫茶店に連れ込んだ明子が切り出す。
飛雄馬は上等な着物に身を包み、今やどこか遠い世界の人間になってしまったような印象を受ける実の姉・明子の心配そうな表情を浮かべているその美しく化粧を施してある顔を見つめた。
「花形さんが、どうしたの」
「あなたが家に寄り付いてくれないことを悩んでいるのよ。だから、何か理由があるのなら話してほしいと思ったの……急に呼び止めてごめんなさいね」
花形がそんなことを?と飛雄馬はウエイトレスが運んできたコーヒーを受け取りつつ、ハンドバッグからハンカチを取り出し、目元を押さえる姉を見据える。
「特にこれと言った理由はないが、花形さんがそんなことを?」
「いえ、そんな悩んだりする姿を他人に見せるような人じゃないのはあなたにも分かるでしょう。でも、何となく、分かるのよ」
何となく、か、と飛雄馬はコーヒーに口を付け、ねえちゃんは外見だけでなく中身も変わってしまったのだろうか、とも思った。
ふたりがどんな交際を経て、結婚に至ったか、その経緯は判りかねるが、花形と自分の関係を目の前でずっと見てきた姉ならば寄り付かない理由くらい見当がつきそうなものだが、と。
花形が自分のことをどう思っているかというのはこれもまたよく分からないが、少なくともおれは彼と仲良く談笑したり食事をするということはどうも上手くやれそうになくて、それでねえちゃんに余計な心配をかけたくない、とさえ思っているのだが、まさかそちらから何故屋敷に寄り付かないのか、と言われるとは思いもせず、困惑しているのが実際のところだ。
「わざわざ、出入りすることもないんじゃないか。自分の家ならまだしも、結婚した姉の家に弟が遊びに行くというのも変な話だと思う」
明子を刺激せぬように飛雄馬は言葉を選び、何とかこの場を諌めようとする。
「家を建てるときにね、あの人、飛雄馬がいつ帰ってきてもいいようにってあなたが泊まる部屋まで別に造らせたのよ」
「…………」
コーヒーを啜りつつ、飛雄馬は黙って明子の話を聞く。
「お父様が興された自動車会社をここまで大きくしたのも花形だわ。どこかでひとり頑張っているあなたに負けるわけにはいかないってこの5年、本当に一生懸命で……あなたに似た人が草野球の代打をしていると興信所から連絡を受けたとき、とても嬉しそうだったの……」
カップをソーサーに置き、飛雄馬は目を閉じた。
どこか飄々として、掴みどころのない印象のあった花形の話を実の姉の口から聞かされ、正直驚いたのである。
打席とマウンドで対峙することも極力避けたかったほどの不倶戴天の敵。
あの目が静かに燃えるとき、必ず自身の魔球は打たれる。
嫌な予感、というものは総じて当たるもので、あの瞳に宿った炎を見るとき、必ず冷や汗が背筋を伝ったものだった。
そんな彼がまさか自分の身を案じていてくれたとは夢にも思わず、飛雄馬はねえちゃんも変わったと感じたが、あの人もまた変わったのだな、とそんなことを閉じたまぶたの裏で考える。
そういえば、美奈さんが亡くなったとき失意のドン底にいた自分を彼なりの方法で励まそうともしてくれたっけ──あの一撃は相当効いたな、と、飛雄馬は目を開け、今度、時間が合ったときは夕食をご馳走になるよ、と微笑む。
「飛雄馬……!」
明子の顔が目に見えて輝き、飛雄馬は苦笑した。
ねえちゃんは本当に花形が好きで、心配なんだろうな、とほんの少しその胸中に嫉妬の感情さえ抱く。
一緒に住んでいたクラウンマンションからいなくなってしまったときからねえちゃんと交流などなかったに等しい。
が、やはり幼い頃、親父にスパルタの限りを尽くされ、泣いていたときそばにいてくれたのは他でもない明子ねえちゃんだったし、おふくろの顔など朧気にしか知らないおれにとっては母親的存在でもあった。
そんな優しいねえちゃんが、今や花形夫人だなんて不思議なものだな、と飛雄馬は苦笑しつつも、それでも、花形ならねえちゃんをこれからもずっと大事に、そして幸せにしてくれるだろうな、とそんなことを考えながら、ここの勘定はおれが持つよと伝票を手に席を立つ。
「飛雄馬……ありがとう……」
姉の震えながらに感謝を伝える声を聞きながら、飛雄馬はコーヒー2杯の代金を支払うと、ひとり、店の外へと出るとまた再び、人混みに紛れるようにして街を歩き始めるのだった。