すうすうと寝息を立てて眠る星飛雄馬に肩を貸しながら、美奈はくすりと微笑むと、バスの座席の車窓から外を眺める。約束を取り付け、待ち合わせはしたものの、今日は何をしようかと互いに考え込んだ。
そうして、しばし思案したのち、美奈が発した一言により街中を走るバスへと乗り込むことになった。
たまにはバスでのんびり、宮崎の街を回ってみたい、と。
時間のせいか混んでいた車内で奇跡的にふたり掛けの席が空いており、困惑している彼に美奈は一緒にどうぞ、と隣の席を勧め、共に座ることと相成った。
法定速度で走るバスは各停車点に止まり、適宜乗客の入れ替えを行う。
青かった空も日が傾き、次第に橙と紫が混じったようになり、夜の色が強くなってきている。
隣に座る彼は宮崎の街を物珍しそうにしばらく眺めていたが、いつの間にか眠ってしまったようで美奈の肩に頭を乗せ、小さく寝息を立て始めていた。
星さん、お疲れなのね。美奈のためにいつもありがとう。日に焼け赤くなった顔にそう囁いて、美奈は自由の利く手の指、その爪にできた黒い点を見つめる。
美奈の命は、あとどれくらいなのかしら。
あと何回、星さんにお会いできるのかしら。
診療所を訪ねてきてくださる患者さんたちのために働いて、それが美奈の幸せで、このまま命を終えるものだと考えていたけれど、星さんに出会って、美奈は……。
バスが急ブレーキを踏んだか、車体が大きく揺れ、乗客らがどよめき、車内には緊張が走った。
そのおかげで隣に座る彼も目を覚ましたか顔を上げ、しばしぼんやりとしていたが、すぐに自分の状況を把握したらしく、すみませんと耳まで真っ赤にしながら頭を下げた。
大丈夫ですわ、と美奈は微笑み、しばらく休んでいらしてと続ける。
面目ない、こちらから誘っておいて……と申し訳なさそうに彼は言い、恥ずかしそうに頬を掻いた。
「いいえ、お気になさらず……」
「夢を、見ていました」
ぽつり、と隣に座る彼が呟く。
「夢?」
ええ、と彼が頷き、幸せな夢を……子供と、家族皆で宮崎の浜辺を駆け回る夢です。
淡々と、しかし力強い口調で彼は言葉を紡ぎ、おれ、いや、ぼくには到底手が届かない遠い夢ですとも続けた。
「どうして?」
「……父ちゃん、いや、父に託された夢があって。その夢を叶えるまでは自分のことなど二の次なんです」
「お父様はお父様、星さんは星さんだわ。あなたは自分の人生を幸せに生きる権利がある」
「そう、でしょうか。そう、思ってもいいんでしょうか……」
言って、彼は車窓から空を見上げた。
車内の明かりのせいではっきりとはしないが、星々がいつものように夜空には輝いている。
星さんは、時折、ふと、こうして遠い目をする。
どこか寂しげで、彼が纏う雰囲気はいつも張り詰めている。何を心に秘めて、何を考えているのか。
それを尋ねるにはまだ出会って日が浅すぎる。
「……星さんとご一緒に浜辺を駆ける奥様はきっと幸せなのでしょうね。美奈はとても羨ましい」
傍らを行くのは誰?とはどうしても訊けず、美奈はここで降りましょう、と海岸近くのバス停付近でブザーを押す。バスは停留所にて車体を止め、ふたりを降ろすと、夜の闇に紛れ、去っていく。
「海、ですか」
「ええ、美奈は海がとても好きですの……」
「…………」
停留所からほんの少し歩くと、海はすぐ目の前に広がっており、美奈は靴が砂で汚れるのも気にせず、浜辺を歩き始めた。
外灯はほとんどなく、月明かりのみが頼りだ。
「星さんは、好きな詩などはお有りになって?」
「し?詩ですか……いえ、そういったものには疎くて……」
「私は今、生きようと努めている。というよりも、どのように生きるかを、私の中の死に教えようとしている。」
「え?」
声の調子から、隣を歩く彼のきょとんとした表情が目に浮かぶ。波のさざめきが心地良い。
美奈は波が打ち寄せる浜辺の中ほどまで歩いて、その場に腰を下ろす。彼もまた、少し離れた場所へと座り、ふたり並んで波の音に耳を傾ける。
「星さんは海はお好き?」
近くに落ちていた貝殻をひとつ、拾って耳に当て、美奈は彼に尋ねた。
「え?海、ですか。好きとか嫌いとか考えたこともありませんでした。でも、宮崎の海は澄んでいて綺麗で……素敵だなと感じます」
彼が紡いだ言葉を聞きながら、美奈は月明かりに照らされた彼の横顔を見つめる。
海はいつまでも波の音を響かせ、変わらぬ姿でここにある。美奈がいなくなっても、星さんは海を見るたびに、美奈のことを思い出してくれたらいいな、と美奈は隣に座る彼を見つめながら、押し寄せる波の音に耳を傾けた。