「ち、ちょっと待った」
ベッドの枕元に置いた時計の短針が間もなく11を刺そうという頃、ここ読売巨人軍の選手寮にて伴と飛雄馬の二人はひとつのベッドの上で互いに肌を寄せていた。
飛雄馬の体を抱き、目を閉じて口付けようと顔を寄せていた伴に待ったをかけ、飛雄馬は腕を緩めてくれ、と申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「なんでじゃい。今頃になって」
「いや、爪が、気になってな」
「爪?」
一瞬、ムッとした伴だったが、飛雄馬の爪という単語に渋々と腕の力を緩めた。
こうして素直に引き下がったのも、野球の『や』の字もろくに知らなかった伴が、飛雄馬との出会いを経て、野球の何たるかを五感で感じているうちに、いかに投手が己の腕、肩から指先におけるすべてを重要視し、大切にしているかと言うのを学んでいたからこそだ。
球を放つ指の爪は特に手入れを怠ると、試合中に割れや欠けの原因となり、それだけで投手である自分が困るだけでなくチームの勝敗に関わる。
高校時代、出場した甲子園大会の準決勝で折れたバットを弾いたがゆえに親指の爪を割る羽目になったあの事件以来、飛雄馬は爪の手入れを念入りに行うようになった。 飛雄馬はデスクの引き出しから爪切りを取り出すと、そのヤスリの部分を左手の親指に宛てがい少しずつ削っていく。
削っては指先で撫で、時たまボールを握り、具合を確かめるということを繰り返し、飛雄馬は削った際に出た白い屑をふうっと窄めた口から息を吐き、吹き飛ばす。
「大変じゃのう、おれなんか爪など気にしたこともないぞい」
「………ふふ、小さいときからとうちゃんに指や手の手入れについてはさんざん言われきていたからな」
親指の処置を終え、次は人差し指へと移る。ヤスリが爪を削る乾いた音が部屋に響く。
「爪」
「え?」
顔を俯け、爪を削ることに集中していた飛雄馬が伴の声に作業を中断し、顔を上げる。
「おれが、切ろうか」
「……………」
一瞬、呆気にとられ、伴の顔を見上げたまま飛雄馬は固まった。
まさか冗談だろう──と思ったものの、伴がニコニコと笑みを浮かべ、貸してみろと言わんばかりに左手を差し伸べているので、飛雄馬は途中の人差し指と、まだ全然手付かずである中指の手入れを彼に任せることにした。
「ゆっくり、やってくれよ」
恐る恐る、目の前に差し出された伴の左掌に飛雄馬は自分の左手を乗せる。
本来なら、投手が爪の手入れを他人に任せるなど言語道断であるが、伴のことならきっと大丈夫だろう、という絶対的信頼が飛雄馬の中にはあった。
いつも自分を励まし、支えてくれる伴になら、と。
現に、爪切りを手にした伴はこのペースでいくと夜が明けてしまうぞ、と茶々を入れたくなるほどゆっくりと飛雄馬の爪を削っている。
「あ、待った。いい。次に移ってくれ」
あまり深爪にされても、具合が悪いために飛雄馬はある程度のところで伴に最後の一本である中指に移るように言った。
見ていても思ったが、いざ自分でやるとなると骨が折れるわい、と伴はぼやきつつ、飛雄馬の中指の爪にヤスリをかけていく。
固い爪が削られ、短くなっていくのを飛雄馬は見つめつつ、おれは伴と出会わなければ一体どうなっていたんだろうな、と、そんなことを考える。
とうちゃんがたまたま青雲に行かなければ、柔道部の練習を目にすることがなければ、おれに青雲に行けと言わなかったら。
そんな、もし、を考えても意味のないことは分かっているが、伴がおれの球を捕る、と躍起になってくれなかったら──。
「伴、ちょっとゆっくりすぎるぞ。このままだと夜が明けてしまう」
「む、そうか……すまん、下手に自分がやるなどとは言ったらいかんのう」
「いや、嬉しい。そうじゃない、ただ、少しペースを上げてほしいだけだ」
「………」
言われた通りに、伴は少しペースを早め、爪切りの角度を変えつつ、飛雄馬に指示されたように爪を処理していく。
「…………伴、ちょっと」
作業を中断させ、飛雄馬はふうっと吐息で削った際に出た粉を吹いてからボールを手にし、ぎゅっとそれを握った。
「うん、大丈夫だ。ありがとう」
言いつつ、飛雄馬は枕元にある目覚まし時計に視線を遣る。間もなく12時。
早く寝なければ、とも思うが、爪をしてもらった手前──などと飛雄馬が考えていると、伴は、そうか!とまたあの満面の笑みを見せてから、彼の背中を大きな掌でバシバシと叩いた。
「よし、それじゃあ寝るとするかのう」
「え、い、いいのか。続き、しなくても」
「続き?ああ、うん……ええんじゃい。もう日付が変わる。睡眠は大事じゃぞい」
「………伴」
「ほら、横になれ」
爪切りを引き出しに仕舞い、部屋の明かりを消してから伴は先にベッドにもぐり込み、自分の隣の空いたスペースををぽんぽんと叩いた。
「明日、いつもよりいい球投げられそうな気がするぜ。ふふ……」
「またそんなお世辞を言いおって……は、早く寝るんじゃぞい」
大きな体で壁に向かい合うように寝返りを打って、伴はそれきり黙った。
飛雄馬はその広い背中をベッドの端に座ったまましばらく見つめていたが、彼がいつものように大きないびきをかき始めたもので、クスッと小さく笑みを溢してから、綺麗に整えられた自身の左手の爪を眺めて、またはにかんだように笑った。