無視
無視 試合のあと──飛雄馬は痛みを覚えるほどの鋭い視線を感じ、自球団のベンチにて俯けていた顔を上げる。観客席からか、記者のカメラだろうか。いいや違う、一体どこから。誰が見ている?
「星、おい、星。聞いているのか」
「あっ!」
いつの間に、隣に腰掛けていたのか監督である長島に声をかけられ、飛雄馬は、すみません、と謝罪の言葉を口にしてから、彼の凛とした精悍な双眸を見据えた。この人の顔を目の当たりにすると、気が引き締まる。同じ選手としてグラウンドに出ていた頃からそうだったが──。
観客らの声援、選手らの話し声が普段より騒がしく感じられるようで、飛雄馬は長島が言葉を紡ぐ唇の動きを見つめつつ、はい、と返事をしてから、再び感じた視線に眉根を寄せる。
「星?」
「はっ、はい」
「どうした、さっきから落ち着かない様子だが、何か悩みでもあるのか」
「い、いえ──何も、」
言いかけ、飛雄馬はハッ、と長島から視線を逸らす。
今日の対戦球団は──ヤクルト。
「星、おい──」
長島の声を遠くに聞きながら、飛雄馬はこちらを見つめている男の顔を瞳に捉える。
相手側のベンチに座り、じっと己を睨む彼は、ふいに笑顔を見せたかと思うと片目を閉じ、ウインクをしてみせたではないか。
「…………」
見なかった振りをして、飛雄馬は、それじゃあ明日、頼んだぞ、と肩を叩いてきた長島に、しまった、と顔をしかめ、もう一度お願いします、と首をすくめた。
それから、飛雄馬は長島から頼まれた明日の先発の件で頭を悩ませながら、寮に帰るべく、まずは着替えを済ませようとベンチ裏の選手通用の扉を開けた。
そうして、廊下につながる階段を降り、トイレの前を通り過ぎた辺りで、背後から飛雄馬くん、と呼ばれ、はたと歩みを止める。
軽やかな足取りで階段を駆け下りて来る、自身の着用するそれとは異なる縦縞のユニフォームに目を奪われ、飛雄馬は目の前に現れた男を前に、しばし硬直した。
「お疲れ様。さすが飛雄馬くん、我がヤクルトの選手はきみを前に文字通り手も足も出なかった」
「花形さんこそ、お疲れ様」
当たり障りのない返事をして、飛雄馬は汗に濡れた野球帽を頭から取ると、名前を呼んだ彼・花形に背を向ける。
「監督と話をしていたようだが、明日の試合のことかい」
「……広岡監督に、何か言われたのか?」
長島の名を出され、飛雄馬は僅かに苛立つと共に彼と対峙するように体の向きを変えた。
わざわざ彼が巨人のベンチ裏を訪れたのは、先程の会話の内容を尋ねにきたと思ったからだ。
「広岡監督に?」
「広岡監督が、花形さんに長島監督とおれの会話の内容を聞いてこいと言ったのか?」
きょとんとした面持ちで佇んでいた花形の表情が、途端に険しくなって飛雄馬は一瞬、怯んだものの、あなたに教える必要はないはず、と強い口調で言い切り、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ああ、そういう……フフッ、まさか。飛雄馬くんは広岡監督やぼくがそんな卑怯な男と思うのかい」
「…………」
それなら、何の用でここに?の言葉を飲み込み、飛雄馬は背後からまたしても階段を駆け下りる人影に目を留め、花形もそれを察したか背後を振り返る。
「おや、まだいたのか。まったく、兄弟喧嘩はよそでやってくれよ」
「はは、さっき三振を取られたのがよっぽど頭にきたと見える」
姿を見せた巨人の選手ふたりが花形と飛雄馬の仲をからかう。
「まあ、そんなところです。お騒がせしてすみません」
「程々にしておけよ。明日の試合はまた星に頑張ってもらわにゃならんからな」
笑い声を上げながら去っていくふたりを見送って、ホッと胸を撫で下ろした飛雄馬だったが、いつの間にか廊下の壁際に追い詰められていたことに気付いて、しまった、と身を翻す。
しかして、壁に手をついた花形にそれを遮られ、閉じた口の奥で歯噛みした。
「…………」
「なぜぼくがきみを追ってきたか、知りたい?」
「早く、帰ったらどうだ。ねえちゃんが待ってるだろう」
「明子の名を出せばぼくが怯むとでも?」
「…………」
「さっき、ぼくを無視したことが気に入らなくてね」
「無視?」
何の話だ、読めない。一体いつ、どこで無視をしたと言うんだ。飛雄馬は言葉の続きを待つべく、じっと花形を見上げる。
すると、ついと伸びてきた花形の手が顎先にかかって、飛雄馬の体は大きく跳ねた。
そのまま、僅かに顎先を指で持ち上げられて、飛雄馬が何を、と尋ねるより先に寄せられた唇で呼吸を奪われる。手にしていた帽子が床に落ち、微かに音を立てたのを飛雄馬は聞く。
口を開けてと囁かれた言葉に首を振り、固く閉じ合わせた唇を花形の舌先がくすぐって、飛雄馬は己の体が熱く火照るのを感じる。と、壁に触れていた花形の手が腰に回って、尻を撫でたことで、飛雄馬は小さく声を上げた。
「ふ……っ、」
花形が唇を吸い上げた軽いリップ音が辺りに響いて、飛雄馬の肌はじわりと汗ばみ、皮膚の表面は粟立つ。
開いた唇の隙間から滑り込んだ花形の舌が飛雄馬のそれに触れ、そのままゆるりと口内を弄んだ。
尻を撫でていた花形の両手は、いつの間にか飛雄馬の左右の頬を支えており、一切の身動きと抵抗を封じられる。一度は解放された唇に再び吸い付かれて、飛雄馬は呼吸もままならないまま、次第に頭が霞がかったようにぼんやりとしていくのを感じる。
離した唇から漏れた互いの吐息が絡んで、飛雄馬は潤んだ瞳を花形へと向けた。
すると、頬を支えていた花形の指──親指が唾液に濡れ光る飛雄馬の唇をなぞるや否や、口の中への侵入を果たす。頬の内側を撫で、奥歯に触れ、舌の表面をくすぐった指が、今度は二本の──人差し指と中指と入れ替わった。
「っ、う……うっ、く」
閉じることを許可されない飛雄馬の口からは唾液が溢れ、唇から顎、首筋を伝う。
「ヤクルト打線をきりきり舞いさせた同一人物とは思えないね」
笑み混じりに囁いた花形が指を抜き、再び寄せてきた唇に飛雄馬は口を開き、応えた。
「は、ふ……っ、ん、」
口内に溜まった唾液を飲み込んで、飛雄馬は己の腰を抱く花形の腕を握る。
口付ける角度を変え、時折、音を立て唇を啄まれてから、ようやく与えられた自由に、飛雄馬は壁を支えに立っているのがやっとだった。
「明日、また球場で会えるのを楽しみにしているよ」
ニヤリと微笑んだ花形がそう言い残し、廊下の奥に消えていくのを飛雄馬はしばらく見つめていたが、背にした壁に沿うようにしながらその場にへたり込む。
唾液に濡れた口元を拭って、飛雄馬は涙の滲む目を腕で擦ると花形が向かった先へと視線を遣る。
無視をした、と彼は言っていたか……。
一体何のことか皆目見当がつかない。
どうせ、いつもの気まぐれに決まっている──。
飛雄馬は立ち上がり、トイレまでの僅かな距離を歩むと、手洗い場の水で口を濯ぎ、顔を洗う。
見上げた鏡越しの己の顔は、ひどく顔色が悪い。
唇を不器用に笑みの形に歪めてから、飛雄馬は無理矢理笑顔を作ってから、大きな溜息を吐くと共に、トイレからそっと廊下へと出た。
人の姿は見当たらない。今のうちに早く寮に帰らなければ。スパイクの音を響かせ、飛雄馬はひとり、薄暗い廊下を歩いた。