土産
土産 それにしても伴のやつ、ラーメン特盛り完食でお代無料を難なくやってのけるなんて──と、飛雄馬が思い出し笑いをしつつ、自宅のあるクラウンマンションのエレベーターから降り、己の部屋の前まで来たところで、ふと、見覚えのある顔を目の当たりにし、歩みを止めた。
部屋の扉に背を預け、腕を組んだ姿のままちょうど手首にはめた腕時計に視線を遣る男というのが現在、兵庫にある阪神タイガースに所属している彼で、飛雄馬は驚きのあまり目を見開き、固まる。
するとやはり彼──花形満と言うべきか、気配を察したか顔を上げ、今帰りかねと口を開いた。
「あ、はあ、そんな、ところです」
「今日は明子さんの帰りは遅いのかい」
「ねえちゃん、ですか?さあ、聞いてませんが……約束でも?」
「いや、約束など……フフ、毎度のことさ。ひと目見たくてぼくはここを訪れるのだが、明子さんにお会い出来たことは一度もない。残念なことにね」
「いつから、いたんですか」
飛雄馬はここ数日の試合の組み合わせを思い出しつつ、尋ねる。
確か阪神は明日、アトムズと当たる予定になっていたか。
だから本来、関西地方を主として動く彼も関東に戻ってきているのだな、と飛雄馬はスラックスのポケットから取り出した鍵の束で部屋の施錠を解いた。
「かれこれ3時間ほどになるが、明子さんの帰りが何時になるかわからんと言うのならこのまま引き下がらせてもらおう。すまんが星くん、ぼくがここを訪ねたことについては黙っていてくれないだろうか」
「それは構いませんが──よかったら、上がって行きませんか。コーヒーくらい、出しますよ」
3時間もここで待っていた彼をそのまま帰すのも忍びなく、何だかばつが悪いような気がして、飛雄馬は花形を部屋の中に招き入れる。
誰に頼まれたわけでもなく、花形が自分の意志でこんな時間まで粘っていた結果だと言うのに、これが星飛雄馬の悪いところと言うべきか、長所と言うべきか──ひと休みして行くといい、と飛雄馬は花形にそう、声をかけた。
「いや、結構だ。気持ちはありがたいが、きみもぼくとふたりと言うのは気まずかろう。また出直すさ」
「そう、ですか」
花形にきっぱりと断られ、飛雄馬は握ったドアノブを回すと扉を開け、内部へと足を踏み入れる。
それにしても、花形さんはいつからここを訪れるようになっていたのか。
他球団との試合の折に、その土地の名産品や花束、メッセージカードをねえちゃん宛に送ってくれていることは知っていたが、まさか本人まで度々部屋に来ていたとは。
花形さんはねえちゃんには言うなと言っていたが、これは一言、伝えておくべきことなのではなかろうか。
忙しい練習の合間を縫い、遠征の疲れを癒やす間もなくわざわざマンションまで来ているのに、あまりに報われない。
「ああ、そうだ。星くん、これは新幹線に乗る前に買ったものなのだが──」
扉が背後で閉まる直前、飛雄馬は花形の声を聞く。
まだ何か、と飛雄馬は閉じる扉を手で押さえ、振り返る。
そうしてそのまま、閉じかけた扉を再び解放し、なんですか?と訊いた。
「関西の土産さ。冷蔵品であまり日持ちはせんので、早めに召し上がってくれたまえ」
「……ねえちゃん、いつも喜んでましたよ。いつか花形さんにお礼が言いたいと話していました」
「…………」
差し出された紙袋を受け取りつつ、飛雄馬は明子の言葉を代弁するような台詞を吐き、明日のアトムズ戦、期待してますと微笑む。
「おれも明日の試合は先発で出ます」
ニッ、と花形は例の独特の笑みをその顔に湛えると紙袋を手にしていない飛雄馬の左手を取るや否や、口元まで掲げたその甲へと優しく口付けた。
「…………!!」
「健闘を祈る」
予想外の行動に身動きひとつ取れない飛雄馬の頬にまで花形は口付けを与えてから、ゆっくり休みたまえと言い残し、踵を返す。
今のは、一体?と花形の唇の触れた左手と頬を撫でては何度も目を瞬かせる飛雄馬の目の前で出入り口の扉は音を立てて閉まった。
何の戯れなのか、あの人の考えていることはおれにはわからんな、と飛雄馬は今になって恥ずかしさが込み上げ、赤くなった顔を手で煽ぎながら花形から渡された品を紙袋もろとも冷蔵庫に仕舞い込む。
それから、密かに、花形さんがくれる名産品を楽しみにしている自分がいることに気付いて、飛雄馬は火照った顔を冷やすためにベランダへ出ると夜風に肌を晒す。
すると、ちょうどマンション地下の駐車場の道路から1台のオープンカーが躍り出て、目の前の道路を颯爽と駆け抜けて行くのが見下ろした先には見えて、飛雄馬は己の頬を左手でそっと撫でた。