魅了
魅了 花形は東京の街をすれ違う人々を避けつつ、特に宛もなく歩いている。
神奈川に実家を持つ花形であったが、普段から車の整備を任せている花形モーターズ傘下の自動車工場が東京であるために、時折、こうして工場近辺を散策することがあった。
とは言え、何度も訪れていれば、周辺の喫茶店などは軒並み足を運んだことがある場所ばかりで、正直、飽きてしまっている。
今日は少し足を伸ばし、一駅先まで歩いてみるかと花形は頬を紅潮させ、大ファンなんですと上擦った声を上げつつ握手を求めてきた女性の手を握り返しながら、そんなことを考えていた。
こんな時、彼ならどういう応対をするだろうか。
やはり、恥ずかしさに顔を赤らめながら握手に応じるのだろうか、と花形は礼を言い去っていく女性に手を挙げ、目を閉じる。
今頃、彼は何をしているんだろうか。
そう、思いを馳せつつ、目を開け、歩みを再開させる花形はふと、前に向けていた視線を右へと遣る。
すると、道行く多くの人々、それこそ老若男女様々の人がすれ違う人混みの中で花形の瞳は偶然にも彼を──星飛雄馬の姿を捉えた。
思わず花形の歩みが止まり、一瞬、彼は呼吸さえ忘れた。
星くん、と花形は思わず口元でその名を紡いでいる。
と、視線に気付いたか、はたまた何か目に留まるものでも付近に存在したのか、前方より目線を逸らした飛雄馬の双眸が花形を映した。
飛雄馬の瞳が驚きからか大きく見開かれる。
しかして互いに名を呼び合うでもなく、ただ黙って互いの姿をその目に映すのみだ。
「…………」
飛雄馬の顔がみるみるうちに険しくなり、その眉間には深い皺が刻まれ花形を睨む。
「…………」
それに反するかのように花形の口元には笑みが浮かぶ。こんなところで遭遇したことへの素直な喜びと、飛雄馬がこちらを睨み据えるその表情に興奮を覚えたからでもある。
何百、何千の人が行き交う中、たったふたり、距離にして数十m。
時間が止まったような錯覚さえ、花形は覚える。
握った拳にじわりと汗が滲む。
片時も目を離してはならない。
あの目が、捕手のサインを受け、どう答えたか、それから彼はどのように腕をしならせ足を掲げ、球を放つか。
瞬きなどしようものなら目を開けた瞬間、白球は構えた捕手のミットに収まっている。
己を映すあの瞳の、何と美しいことか、と花形が固く握っていた拳を開いた刹那、飛雄馬はふと、視線を逸らし、人混みに紛れた。
「……………」
しばらく、花形はその後ろ姿を目で追ったが、次第に人の波に紛れ、分からなくなった。
「花形さん!」
呼ばれ、花形はハッと我に返る。
何事かと声の主のいる背後を振り返れば、色紙とサインペンをこちらに差し出す阪神タイガースの特徴的な帽子をかぶった少年が立っており、花形は先ほどとは違う、柔らかな笑みを浮かべるとそれらを受け取った。
「花形さん、昨日のホームラン、すごかったですね!周りは巨人好きな友達ばかりだけど、おれは花形さんのいる阪神、ずっと応援してます」
少年の弾むような声を聞きながら、花形は色紙にサインを記すと、彼に色紙とペンを渡す。
「明日の巨人戦、楽しみです!これっ、サイン、家宝にします!」
にこにこと嬉しそうに微笑みを浮かべ、サインを胸に人の群れに混ざった少年を花形はしばらく眺めていたが、再び、東京の街を歩み始めた。