ミカン
ミカン 「なあ、星よ。川上監督がくれたミカン、甘くて美味しいぞ」
「ちょっと待ってくれ、もう終わるから」
「ほら、ひとつ食べてみい」
「伴!気が散るから黙っててくれないか!」
宿舎の部屋でグラブの手入れをしていた飛雄馬にしきりに伴は話しかける。
練習後のミーティングの際、川上監督が実家からミカンが大量に送られてきたと言うので、それぞれひとつずつ部屋に持ち帰ってきたのだった。
それを伴は部屋に入るなり皮を剥き始め、ひと房ずつに分けた実を口に放り込むと、うまいうまいと舌鼓を打ったが飛雄馬はグラブの汚れや色褪せが気になっていたために先ずはそちらに取り掛かったのである。
「グラブの手入れなんぞ後からでもいいじゃろうに」
「伴、きみはそれでもプロ野球選手か?ボロボロのグラブで試合に出てヘマでもしたらどうする。皆に迷惑がかかってしまうじゃないか」
「それはそうじゃが、おれは星と甘くて美味しいミカンの味を共有したかったんじゃい」
最後のひと房をもぐもぐとやりつつ伴はベッドに座り、グラブを磨く飛雄馬から顔を背けた。
「……ふふ、なんだそれ。甘えてるのか?」
「あ、甘え!?ミカンは確かに甘かったが、おれは甘えてなんぞおらんわい!」
苦笑し、飛雄馬は手入れを終えたグラブを置くと、ベッドの枕元に寄せていたミカンを手にそれの皮を剥いていく。
それから、実を房ごとに割るとその内のひとつを頬張る。甘いミカンの果汁が喉を潤す。
「うん、美味しい。実は小さいがすごく甘い」
「九州のミカンは有名じゃからな」
飛雄馬が上げた感嘆の声に同調するように頷き、伴は自分のベッドの真ん中に座ったまま、じっとミカンを頬張る同室の彼の顔を見つめる。
「気に入ったのならまた貰いに行くといい。まだまだたくさんあると監督、おっしゃっていたじゃないか」
「……星の幸せそうな顔を見るとおれもこう、胸があったかくなるんじゃい」
ミカンを口元まで持ってきた飛雄馬の手が止まる。
そうして、彼もまた、対面のベッドに座る伴の顔を瞳に映した。
「そんなに、変な顔、してたか」
「なに、そうじゃないわい。このところ試合がない日もずっとピリピリしとったからのう……食事のときも風呂のときも何か思い詰めたような顔をしとった星がミカンを口にしたときは顔を綻ばせたからな。それが無性に嬉しくてな」
ぱく、とミカンを口に含んで、飛雄馬は奥歯でその柔らかい身を噛み締める。
「伴、は文句も言わず練習に付き合ってくれるが、辛いとか辞めたいとか思ったことは、ないのか?いや、仮に思ったとしてもきみのことだ、絶対にないと言うんだろう」
「そんなこと、考えたこともないぞい。星がおれを頼ってくれるのは何より嬉しいことじゃからな。貴様がおれを親友だと言ってくれる限り、おれはどこまででもついていくぞ」
反らした胸をドンと叩き、伴は得意げにウインクの要領で片目を閉じた。
「伴は、眩しいな。たまに、そばにいるのが辛くなる」
飛雄馬は伴から視線を逸らし、ミカンを口に放り込む。伴はおれの野球に対する姿勢に心を打たれた、と言うが、おれが巨人の星を目指すのだって結局はとうちゃんの夢を叶えてやりたい、と考えてのことで──伴のその真っ直ぐな思いにおれはどう答えてやったらいいのか、といつも悩んでいる。
いっそ何か見返りを求めてくれたら、とさえ思う。
たったふたりで始めた見果てぬ夢が、家族を、親友を、はたまたプロ野球界を巻き込み、行き着く先は、今以上の地獄なんだろうか。
おれは頭上に輝く星を掴むつもりが、抜け出せぬ蟻地獄の底で砂を掻いているのではないか。
「……星はおれに生き甲斐を与えてくれたんじゃ。つまらん日々を送っていたおれが星と野球に出会ったことで毎日が楽しゅうて楽しゅうて堪らんようになった。友と一緒に汗を流し、喜びや悲しみを分かち合うことの尊さを知った。その恩返しがしたい、と言うと壮大過ぎるが、う、む、その、じゃから、星がおれのことでどうこう悩むことはない」
ごくん、とミカンを涙と一緒に飲み込んで、飛雄馬は最後のひとつを口に含む。
ああ、ほら見ろ、やっぱりきみは眩しい。
おれの曇り、淀んだ心を一瞬にして晴らした。
「伴、ミカン、もうひとつ貰いに行こうぜ」
場の雰囲気を変えるべく、飛雄馬はベッドから立ち上がりざまに伴を誘う。
「…………おう」
そんな台詞を投げかけてきた飛雄馬の瞳が心なしか潤んでいることに気付いたが、その訳を尋ねるでもなく伴は、先に部屋を出た彼の後を追うように廊下に歩み出た。
「もっと、たくさん、色んなことを伴と共に共有できたらいいな、これからも」
「……もちろんじゃい」
人気のない廊下を歩きつつ、ふたりはそんな会話を交わす。
ふふっ、と笑んだ際、漏れた息が白く染まった。
部屋とは違い、廊下はだいぶ冷える。
「…………」
飛雄馬はミカンは箱のまま置いておくからなと話のあった宿舎の食堂へと続く扉のドアノブを握り、それを回した。
真っ暗な部屋の明かりをつけ、箱の乗せられたテーブルまで歩み寄って、飛雄馬は中から2、3個ミカンを取り出す。
いつか、こんなこともあったな、と懐かしく思う日が来るんだろうか。
その時も変わらず伴は隣にいてくれるんだろうか。
「どうしたんじゃあ?部屋に戻るぞい。ここは寒くて敵わんわい」
頷き、飛雄馬は先に廊下に出た伴を見送ってからミカンを片手に背後を振り返る。
誰もいない、がらんとした冷たい部屋。
壁のスイッチを押し、明かりを消してから飛雄馬は扉を開け、廊下へ足を踏み出した。