巡合
巡合 まいったな、と飛雄馬は手首にはめた時計を見下ろして眉間に深い皺を刻む。
本来ならば飛雄馬はこれから、ホームに定刻通り滑り込んで来たであろう電車に飛び乗り、球団事務所に顔を出さねばならなかったというのに、駅員が口にしたのは事もあろうにトラブルによる電車遅延のアナウンスだった。
タクシーに乗れれば遅刻することはなかろうが、これだけの利用客がごった返す主要駅で電車の遅延とあれば振替のバスにも長い行列ができるであろうし、タクシーもいつ乗れるか分からない。
とりあえず、球団事務所に連絡を入れなければ──と飛雄馬は辺りを見回し、駅の案内板に書かれた公衆電話の位置を確認し、そちらに向かったがやはり公衆電話にも長い列ができており、万事休すであった。
どうしたものか、と飛雄馬は色々と策を練りつつひとまず、駅を出る。
やはり歩いてすぐの場所にあるタクシー乗り場もバス停もたくさんの人が並んでいて、飛雄馬はやるせなさに奥歯を噛み締めた。
と、何やら耳をつんざくようなクラクションの音が聞こえ、飛雄馬は何事かとそちらを見遣る。
すると、その視線の先にいたのは思いもよらない人物で──飛雄馬は思わずうっ!と息を飲んだ。
「はっ、花形!」
飛雄馬が名を呼んだ男──花形満の華やかさを象徴するようなピカピカに磨き上げられたオープンカーの運転席に座り、ハンドルを握る彼こそがクラクションを鳴らした張本人らしく、辺りを歩いていた人、タクシーやバスを待つ人々らも目を丸くしてその姿を眺めている。
スッ、と運転席から歩道へと身を翻した花形を皆、あんぐりと口を開け見惚れた。
「お困りのようだね、星くん。ぼくでよければ力になろう」
フフ、と口元に笑みを携え、花形はまさかの人物の登場に固まってしまった飛雄馬のそばに歩み寄る。
「なぜ、花形さんが、東京に」
後退りつつ、飛雄馬は理由を尋ねた。
「ぼくの実家が神奈川なのは星くんも覚えていよう。関東で試合があるときは実家に顔を出すことにしている。それはそうと早く乗りたまえ。野次馬が集まりだしては身動きが取れなくなる」
「し、しかし」
歯切れの悪い言葉を口にしながらも腕時計に視線を落とした飛雄馬の様子を訝しみ、花形は、星くん!と鋭く名を呼んだ。
彼の言ったとおりに、辺りはざわつき始め、あそこにいるのは巨人の星と阪神の花形じゃないか?何かの撮影か?などといった声も上がり始めている。
「星くん!」
再び花形が名前を口にし、飛雄馬はまんまとオープンカーの助手席に腰を下ろす羽目になったのだが、彼の登場により窮地を救われたことも確かである。
密集し始めた人々らを蹴散らすように花形は車を発進させ、東京の街を颯爽と駆け抜けた。
「助かりました、花形さん。球団事務所から呼ばれていたんだが、間に合わないかと思った」
「巨人の球団事務所に向かえばいいのかね」
右手で車のギアを入れ替えつつ、花形は答える。
「ええ、お願いします」
遅刻をせずに済む安堵感からか飛雄馬は大きな溜息を吐くと、額に浮いた汗を拭う。
「ふふ、ぼくにひとつ貸しができたようだね。星くん」
「…………!」
にやり、と花形は口角を吊り上げると、飛雄馬の顔を信号停車を利用し真っ直ぐに見据えた。 その何やら含みのある発言と、花形の笑みを目の当たりにした飛雄馬の今し方拭ったばかりの額にはうっすらと汗が滲む。
「……なんて、言うとでも思ったかい。あまりこの花形を見くびらんでほしいものだね」
「あ、っ……」
一瞬でも、この人ならやりかねん──と思ってしまったことを恥じ、飛雄馬はすまない、と頭を下げてから、目の前の信号が青を示したためにアクセルを踏み込んだ花形の横顔を一瞥した。
「たまたま通りがかった道をきみが歩いているのが目に入って、何やら時間を気にしているようだったから声をかけたまでのこと。貸しだの借りだの言うのは野暮と思うがね」
いい人だ、と飛雄馬は顔に微笑みを浮かべつつ、己の足元に目線を落とす。
ひとたび、互いにユニフォームを身につければ敵対しあう仲で何を考えているのか読めないことも稀にあるにせよ、花形満という男は悪い人ではないのだ。
ねえちゃんがこの人に惹かれると言うのもわからんでもない。
「間もなく到着するが、あまりに近くで降ろされても心証が悪かろう。少し離れたところで降りるといい」
「あ、ありがとうございます。花形さん……」
「なに、礼には及ばんよ。今日のことは忘れたまえ。でなければきみのことだ。試合中に思い出して手元が狂うだろう」
「そ、そんなことはない!それとこれとは話が別だ!」
カッとなり飛雄馬は反論するが、花形にはすべてお見通しのようで、再びにやりと意味ありげに微笑まれる始末であった。
人通りも車通りもあまりない路地で飛雄馬は車を降り、礼を言うと、続けざまに姉のことを口にする。
けれども、花形は答えず、さよならの代わりだろうか一瞬、ギアを握る右手を挙げると路地から出て行った。
「…………」
このまま歩いて事務所に向かうとちょうどよい時間に到着するな、と、飛雄馬は手首に巻かれた時計に視線を遣り、前を見据えて足を踏み出す。
帰ってこのことを話したらきっとますます、ねえちゃんは花形を好きになるだろうな、と飛雄馬は珍しく昼からアルバイトに出かけた姉のことを脳裏に思い描きながらニコニコと上機嫌で道行く人々に紛れ、事務所までの道を歩いた。