街中
街中 人が倒れたぞ──。
その言葉を最後に、わしの意識はぷつりと途切れた。
真夏の炎天下の中を長時間歩き回ったことで体が疲弊し、体力の限界であったところに舗装された路面からの熱も加わり、ふらふらとそのまま倒れてしまったのだろう、と目の前の男はそう、語った。
エアコンの効いた古びたビジネス・ホテルの一室。
気が付けばわしはベッドの上に横になっており、額には冷たい手拭いが乗せられていた。
「大事に至らなくて良かったな。しかし、ベッドがふたつの部屋はあいにくと満室でな。あんたの体格もあるし、ベッドの大きなこの部屋を選ばせてもらった」
「…………」
面相を見られなくないのか色の濃いサングラスを掛け、黒髪を無造作に肩まで伸ばした男は、自分をトビタと名乗った。街中で急に倒れ込んだわしを彼がひとりでここまで担いで来てくれたらしい。
背広を脱げと言われ、促されるままに脱いだジャケットをわしはトビタと名乗った男に手渡した。
命の恩人に対し、こんな印象を抱くのは良くないとわかってはいるが、いかにも胡散臭い──。
これ幸いとばかりに金でもたかられやせんかと、そんなことまで考えてしまう。
「ふふ、怪しい者じゃないさ。伴宙太くん」
ジャケットを衣紋掛けに羽織らせつつ、トビタが口を開いた。
「な、なぜわしの名を──」
「悪いとは思ったが、所持品を改めさせてもらった。その中に会社の名刺があってな。伴重工業常務、伴宙太……」
「ふ、ふん。なんじゃい、わしの肩書きに目が眩んだんじゃろう。恩を売っておけば金には困らんと踏んだんじゃろうが、そうは問屋が──」
「嫌味を言えるまでに回復したのならおれの出る幕はないな。しばらく休んでいくといい。なぜこの炎天下の中外を出歩いていたかは知らんが、時には休むことも大事だぞ」
トビタは言うと、こちらには目もくれず部屋を出て行こうとする。わしは、トビタに待ったを掛け、部屋に置かれていた椅子に座るよう勧めると、まずは先程の非礼を詫びた。
「すまん……あんなことを言うつもりじゃなかったんじゃが……そのう、トビタの格好があまりにあや、怪しくて……」
トビタはそれを受け、一瞬キョトンと呆けたが、すぐに吹き出すと声を上げて笑い、それはすまなかったな──と言うなり、サングラスを外した。
似ている、とわしは思わずトビタの素顔に見惚れる。
星?と紡ぎかけた言葉は、トビタの星飛雄馬に似ているか?の一言で封じられ、黙って頷くことしかできなかった。
「よく間違えられるのさ。それが嫌でな、とサングラスを掛けている。不審に思われるくらいなら初めから外しておけば良かったな」
「う、瓜ふたつじゃい。星に」
「……星を、知っている口ぶりだな。ああ、わかった。あんた、中日にいた伴宙太だろう。ふふ、移籍するまでは星飛雄馬の女房役を務めていた」
「詳しいのう。ずいぶんと」
「似てる似てると散々言われてきている。興味は湧くさ」
「…………」
何か食いたいものでもあるか。念の為、医者にでもかかるか。トビタは続け、両の瞳を細めた。
心臓が、馬鹿に跳ねるのは暑さにやられた後遺症だろうか。部屋は冷えているというのに、身体がいやに火照る。星のやつ、わしを担いでいるんじゃろうか。
星がいなくなってからの数年間、わしは休みのたびにこうして関東近郊を歩き回り、興信所の人間から似た人物を見かけたと報が入れば仕事も投げ出し、北は北海道、南は沖縄まで確かめに行っているというのに。 人の苦労も知らんで、まったく。
「トビタこそ何か用事で街を歩いていたんじゃないのか。いいのか、こんなところで油を売っておっても」
「見ての通りの風来坊でね。日雇いの仕事をしながらふらふら生きているような男さ。用事などあろうはずもない」
「風来坊っちゅうと普段はどこで寝泊まりしとるんじゃ」
「纏まった金が手元にあればドヤに泊まることもあるが、大体は屋根のある終電後のバス停や潰れた商店の軒下さ。冬は暖かい地方に移動してね」
「なぜそんな生き方を?」
「…………自分探し、新たな目標を探してな」
言い終えるとトビタは遠くを見つめ、口元にふ、と笑みを湛えた。
「新たな、目標……今の生活をするまでには定職にも就いていたのか?」
「まあ、おれの話はこれくらいでいいだろう。次はあんたが話してくれないか」
「話すって、何をじゃい」
「星との関係──」
「!」
トビタの口から発せられた星の名に、伴は唇を引き結ぶ。そうして、何かを言わなければと口を動かすが、上手く言葉にならず、時間ばかりが過ぎていく。
わしと、星の関係、じゃと?
トビタはそんなことを聞いて、どうするんじゃい。
「ぷっ、ふふっ……なんて顔をするんだよ、伴」
「あ、っ……あう……」
「なぜこの暑さの中、休憩もせず倒れるまで歩き続けていたんだ?会社の重役ともなればお抱えの運転手がいるだろう」
わしを、伴と呼ぶ抑揚の付け方、その声色、すべてが記憶している星のものと酷似している。
いや、これも疲れの見せる幻覚か。
わしは白昼堂々、都合のいい夢を見ているのか。
「星が、行方不明になったのは知っちょるか」
「……知っている。新聞にも載っただろう。それで、星を探して、か」
「……そんな、ところじゃい。しかし、トビタのお陰で命拾いしたぞい。星との再会も果たせぬまま死ぬところじゃったわい」
「…………」
「なんて、湿っぽい話を聞かせたのう。そうじゃ、トビタさえ良ければうちの会社で働かんか?住まいも三度の飯も保証するぞい」
伴重工業に電話してトビタと名乗ればすぐわしに繋がるようにしておくから、気が向いたら電話して来るとええ。わしはトビタにそう告げて、ニッコリと微笑む。
「気持ちはありがたいが、遠慮させてもらう。どこかひとつの場所に留まるのは性に合わん」
「そ、そうか……残念じゃい」
「いつか、会えるといいな。星飛雄馬に」
「……会ったところで、わしは何を話したらいいのか未だに考えちょる。星を探しとると言いながら、会うのが怖いんじゃい。もう顔も見たくないと言われるんじゃないかと──」
額に乗せられた手拭いを取りつつ、わしは体を起こす。やはりまだ頭はぼんやりとしている。
「星は確かあんたに自分の女房役として巨人に留まらせるよりも、中日で活躍してほしいと思い、心を鬼にして送り出したんじゃなかったか。なぜ野球を辞めた?星に感じる負い目はそのことか」
「っ…………」
「あんたにも何かしら事情があったんだろう。詮索するつもりはないが、星はあんたに幸せになってほしいと思って身を引いたんだろう。あんたが今、どんな形であれ幸せだと感じているなら、きっと喜んでくれるさ」
「幸せ、なんかじゃ、ないわい……わしは星がいないと……星と共にあることが何よりも幸せで、充実していた。なのにわしは……」
「少し休め。興奮すると熱が上がるぞ」
「なぜ中日には行かんと、あの場から星の手を取って逃げ出さんかったのかとそればかり考える」
「馬鹿なことを……星はそんなこと望んでなどいない」
「に、にゃんでトビタにそんなことがわかるんじゃい!いくら顔や背格好、声が似ちょるからって貴様は星じゃないじゃろう!」
声を張ったせいか頭が鈍く痛んで、わしは眉間に皺を寄せると項垂れる。
わかっている、トビタに当たってもどうしようもないことくらい。しかし、あまりに似ているのだ。
彼が紡ぐ一言一言もまるで星が言っているようにしか聞こえない。それが古傷を抉って、塩を塗る。
この数年間、わしがどんな気持ちでいたかトビタにわかってたまるか。
「おれが星ならそんなことをされても嬉しくないからだ。あのまま父や姉を放ってはおけないだろう」
「星はいつもそうやって他人の気遣いばかりで、自分は傷だらけで立っているのが精一杯じゃったわい。それでも懸命に玉を投げ続け、腕に限界が来ていることも知っていたじゃろうに……」
「もう、しゃべるな。今はゆっくり眠るんだ」
「……すまん……ついトビタに当たってしまったわい」
ベッドに横になり、わしはトビタに背を向けた格好でぽつりと謝罪の言葉を呟く。
「いや、いい……気にするな」
「トビタは優しいのう。初めて会う気がせんわい……まるで昔からの知り合いのような……そんな、気が……」
ベッドの冷たいシーツの感触が心地良く、わしはそのまま眠りに落ちる。ここ数日は仕事も多忙を極め、残業ばかりの日々が続いていた。
よく、眠れるのはトビタのお陰だろうか。
どれくらい眠っただろうか、ハッとベッドの上で目覚めたときにはすでに辺りは暗くなっており、わしは慌てて飛び起きると、部屋の中にトビタの姿を探す。
「とっ、トビタ!どこにおるんじゃあ。きさま、またわしをひとりに────」
「大きな声を出すな、伴よ。廊下まで響いていたぞ」
声を張り上げた刹那に、部屋の扉が開き、廊下の明かりが差し込むと共にトビタが顔を出した。
「なんじゃ、驚かすでないわい。わしゃてっきり……」
「てっきり?いなくなったと思ったか」
「…………」
「ふふ、なに。目が覚めれば腹が減るだろうと思ってな。お湯も入れてもらってきた」
ようやく暗闇に目が慣れて来たところでトビタを見遣れば、両手それぞれにカップ麺の容器を持っていて、明かりを付けてくれないかとも続けた。
「お、おう……」
のそのそとベッドから腰を上げて、わしはトビタに言われるがまま部屋の蛍光灯のスイッチを入れてやった。すると、蛍光灯がチカチカと点滅したあと、通電したか室内を明るく照らす。
部屋の中にはカップ麺の良い匂いが漂っている。
わしの腹の虫もそれにつられ、大きく鳴き声を上げた。
「ちょうどよかったな」
「う、うむ。しかし、わしが起きていなければこのラーメンはどうするつもりだったんじゃ」
「そのときは起こすつもりだったさ。ふふ、嘘だ。おれがふたつとも食えば済むことだろう」
「そりゃあ、そうじゃが……」
「まあ、とにかく、ちょうどいい時間に目覚めたんだからいいだろう。早く食べないと伸びてしまう」
「な、何から何まですまんのう……」
「…………」
カップ麺と共に渡された割箸を割ると、わしは蓋を開け、醤油味のスープの絡んだ麺をずるずると啜った。
空腹に温かい麺とスープの塩気が染み渡って、思わず目頭が熱くなる。湯気のせいで鼻水まで出てくる始末で、わしは情けなく鼻を啜る。
トビタは部屋に一脚だけ置かれていた椅子に座り、ラーメンを啜っている。
ふたり、無言のままラーメンを啜り合って、スープまですべて飲み干した頃にトビタは口直しだとばかりに缶ビールを二本、取り出してみせた。
「用意がいいのう。ちょうど飲みたかったんじゃい」
「そう言うと思ってな。しかし、いいのか、伴。まだ本調子じゃないだろう」
「なんじゃい。買ってきておいてお預けとはひどいぞい。トビタも大丈夫だと思うたから買ってきたんじゃろうに」
「ふふ…………」
「この伴宙太、そこまでヤワじゃないぞい」
それぞれに缶のプルタブを上げ、飲み口をそれぞれに解放したところで乾杯とわしとトビタは缶を掲げた。
ややぬるくはあるが缶を傾け、中の液体を口に含めば強い炭酸と苦味が喉を一気に潤してくれる。
「ぬるくなってしまったな」
「なに、めしに酒にと至れり尽くせりじゃい。贅沢は言わんぞい……それにしても」
ラーメンを食うと、星と過ごした日のことを思い出すわい……わしは続け、缶を手にしたままベッドの上で項垂れる。
「…………」
トビタはカップ麺の容器を部屋の隅に置かれていたゴミ箱に放り投げつつ、また星の話か、と呆れたように言った。
「トビタが星に似すぎちょるからいかんのじゃい。トビタが、悪いんじゃあ」
「酒癖が悪いな、伴。これくらいにしておけ」
「偉そうになんじゃあ、ひっく。ビール一本くらいで酔うわけ、ないじゃろ」
一息に缶の中身を飲み干して、わしはベッドから立ち上がると、目の前のトビタを見下ろす。
「座れ、伴。落ち着くんだ」
「落ち着いていられるかあ!やっと星に会えたと言うのに」
わしはそう、叫ぶと、椅子から腰を上げたか「星」を捕らえるべく彼のもとへとにじり寄る。
しかして、星の姿が二重にも三重にも見え、なかなか実体が掴めない。
「伴、よせ。伴!」
「星、どこじゃあ……わしを置いてどこに行ったんじゃ、星よう」
「伴、わかった。大きな声を出すな」
強い口調で諭され、わしはその場によろよろとへたり込んでしまう。体が熱く、頭が回らない。
「伴、あんたが──きみが落ち着くまでおれはここにいる。安心して眠るんだ。すまない、酒など買ってこなければよかった」
「い、いや、わしこそ……星をトビタと、いや、トビタを星と……にゃにが何だかわからんようになってしまったわい」
頭を抱え、わしは唸る。遂には頭痛までしてきた。
やはり飲むべきではなかったと今更ながら思うが、後悔先に立たずである。
わしは星に──トビタに支えられ、再びベッドに戻ると、体を横たえ、ふうと一息吐いた。
「落ち着いたか」
「う、うむ……しかし、今度は頭が痛くなってきたわい……」
「医者を呼ぼうか、少し待って──」
言いかけたトビタの腕を取り、わしは大丈夫じゃ、と彼の目を見つめ、はっきり言った。
そうか──とトビタは返し、椅子を近くに寄せるとそれに腰を下ろした。
「まったく、トビタには迷惑を掛けてばかりじゃのう……」
「乗り掛かった船だ。最後まで面倒は見るさ」
「まったく、オット、これを言うとまた怒られるわい……」
何から何まで星に似とるわい。憎らしいほどに──言い掛け、わしは口を噤むと傍らに腰掛けたトビタの顔を見つめる。
「口を開けば星、星とそればかりだな、伴」
「そりゃあ、わしは星の女房じゃからのう。地獄の底まで供するつもりじゃったわい。なのに……わしは」
「地獄の底か。ずいぶんと物騒だな……」
「わしは星のことを何にもわかってなかったんじゃあ。独りよがりで、勝手に突っ走って……じゃからきっと愛想を尽かされたんじゃい」
「星がそう言っていたか?星飛雄馬本人からそう聞いたのか」
「…………」
「星はきみに感謝こそすれ、愛想を尽かすなんてそんな器の小さな男じゃない。それは伴が一番良くわかっているんじゃないか」
「トビタ……」
「朝まで、おれはここにいるから今はしっかり眠るんだ」
「しかし、トビタも少しは休まんと……」
「おれはいい。床でも寝れんことはない」
「ばっ、馬鹿を言え。床など……」
わしは驚きのあまり跳ね起きはしたものの、鈍い頭の痛みに呻いて、頭を押さえた。
「無理をするな」
「っ……それならトビタよ、わしの横で眠るといい。少し、窮屈かもしれんが」
「……気持ちは嬉しいが、おれは野郎とふたり同じベッドで眠る趣味はない」
「とっ、トビタがそう言うのならわしも床で寝るぞい。わしひとりだけベッドで寝るのはおかしいわい」
「またそんなことを言って……」
「わしは本気っ……いたた……」
「……わかった」
すんなりとトビタはわしの要求を飲み、部屋の明かりを消すと隣を空けたベッドに滑り込んだ。
「トビタよ、狭くはないか」
「狭いな。身動きが取れん」
「そ、そうか……すまん」
「もう少しこちらに体を寄せたらどうだ」
「しっ、しかし、さっきトビタは野郎ふたりで同じベッドに眠る趣味はない、と言うたじゃろう」
「いいから」
わしはトビタと取っていた距離を詰め、互いの背中をぴたりと合わせる。部屋で稼働しているエアコンのお陰か、不思議と背中が触れ合っていても暑さは感じない。それどころか、妙に落ち着く始末で、体の緊張がゆるりと解けた。
「トビタよ、眠ったか」
「………………」
「今日、こうして会えたのがトビタでよかったわい。明日からまた何だか頑張れる気がしてきたぞい。なんて、初対面の人間にわしは一体さっきから何を言っとるんじゃろうな」
「…………」
「トビタとはまた改めて会いたいのう。旨いすきやき屋があっての、その店にトビタを連れて行ってやりたいわい。きっと気に入るはずじゃい」
返事はない。やはり眠っているらしい。
わしの体をひとりで抱え、ここまで運んできてくれたばかりか食料まで用意してくれたのだ。トビタこそ疲れているだろうに、名前以外は何もわからぬこの男だが、見掛けに因らず優しい人間らしい。
街中で突然倒れたわしなど見て見ぬふりをし、素通りすることもできただろうに。
トビタ、そういえば下の名前を聞いていなかったな。
明日、起きたら尋ねてみることにしよう。
おやすみ、トビタ────。
ふと、気付けば太陽は天高く上っており、わしは今の時間帯は昼過ぎであることを察する。
窓辺のカーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中を明るく照らしている。
「…………」
仕事は遅刻か、まあいい。今日は休もう。親父にまた怒鳴られるかもしれんが、そんなの知ったことか……。
寝返りをごろりと打ったところで、わしはトビタ!?と跳ね起きる。と、そこにトビタの姿はすでになく、わしはぼうっとしばらくその場に呆けた。
いつの間に、帰ったのじゃろうか。
さよならの挨拶くらい、したかったんじゃが。
大きな溜息をひとつ、吐いたところで椅子の上に一枚の紙切れが置かれていることに気付く。
トビタの忘れ物か、とそれを手に取った瞬間、わしは吠える。
「あまり無理はするなよ、伴。また会おう。星」
「星、やっぱりきさま──」
紙切れを握り締め、わしは「星」の痕跡を残す部屋でひとり、声を上げて泣いた。