待ち時間
待ち時間 それにしても、遅いなと飛雄馬は腕時計に視線を落としてから喫茶店出入口の扉が開いた音で顔を上げた──。今日はアルバイトが早く終わるから久しぶりに外で食事にしましょう、と言ったのはねえちゃんなのに、と数時間前、出掛けにそう言って出て行った自分の姉に対し、悪態を吐く。
扉を開けたのは若いアベックで、出迎えた若い女性店員にふたりと告げているのを見遣ってから、飛雄馬は冷えてしまったコーヒーに口を付ける。
時間は夜の七時、近くの喫茶店でと聞いたはずだったが、記憶違いをしているんだろうか。
もう八時を回ろうとしている。
ねえちゃん、約束したのを忘れてマンションに帰ってしまったんじゃないだろうか。
腹の虫が餌を求めるように鳴き、痺れを切らした飛雄馬が軽食でも注文してしまえとメニュー表に手を伸ばし、表紙をめくったところで、テーブル席の対面に人が座る気配を感じ、目線を上げた。
そうして、目の前に見覚えある青年の顔を見つけ、ぎょっと目を丸くする。
「はっ、花形さ……」
飛雄馬が名を口にしかけた瞬間、彼──花形は静かにしたまえと言わんばかりに人差し指を唇の前に立ててみせた。
「人が集まると面倒になる。なぜ花形がここにいるのだと尋ねたいのはわかるが、名前を呼ぶのは控えてくれたまえ」
「…………」
思わず、メニュー表を持つ飛雄馬の手に力が篭もる。
いつの間に?どうやって?なんのために?
そんな疑問がぐるぐると頭の中を巡る。しかして尋ねるまでには至らず、辺りの喧騒ばかりが際立つ。
「明子さんは代わりの人間が体調不良とのことで残業らしくてね。そのことをきみに伝えてくれと言われたのさ」
「は、はあ…………」
ねえちゃんのやつ、なんだって花形に伝言など……姉に本日二度目の悪態を吐き、飛雄馬はそれはどうもと対面に座った花形を見つめ、小さく会釈をした。
すると、いつ呼んだのか花形は店員を呼びつけ、注文している真っ最中で、飛雄馬はまたしてもぎょっと目を見開く羽目となった。
人が集まると面倒になると言ったその口で、店員を呼び食事の注文をするなどどういう了見だろう。
半ば八つ当たりのような苛立ちを彼に抱き、飛雄馬は、きみは?と尋ねてきた花形に、エビフライ定食をとやけくそ気味に返した。
「ではそれで」
悠長にテーブルの下で足などを組みつつ店員を下がらせた花形から視線を逸らし、メニュー表を閉じると、水の汲まれたまま放置されていたせいでびっしょりと汗をかいたグラスの中身を一息に飲み干す。
「ここへはよく来るのかね」
辺りを見回しつつ、花形はそんな質問を投げかけてきた。どうやら、周囲の客たちはおしゃべりに夢中でこちらには気付いていないらしい。数名、店内を忙しく動き回っている従業員らも客の顔など注意深く見てはいないようだ。
「ええ、たまに……」
「彼とかね」
訊かれ、飛雄馬は、彼?と頭の中に疑問符を浮かべてから、ああ、伴のことか──と察しはしたが、ねえちゃんとも来ますよと告げる。
嘘は言っていない。今日だって夕食をここで摂るつもりであった。回数としては伴と訪れることが多いのは事実だが。
「いい店じゃないか。近くにこうした場所があるのはうらやましい限り」
「は、いや、その……そっちにはないのかい」
花形と呼ぶことに躊躇し、飛雄馬は当たり障りのないことを彼に尋ねる。
「あいにくとあまりあちらでは付近を出歩かないものでね。神奈川にはいくつか馴染みもあるが」
「球だ……あ、先輩や後輩と食事に行ったりはしないのか」
やりにくいな、と愛想笑いなど浮かべつつ、飛雄馬は何とか姉が来るまでの間を持たせようと会話を振る。
花形は三人で食事をするつもりでここに居座っているのだろうか。いくら言付けを頼まれたとは言え、彼も気まずいだろうに用が済んだのなら帰ってしまえばいいものを。
「なに、特訓などに付き合ってもらうことはあっても誰かと食事になど行くことはない。そんなことをする暇があるのなら練習に打ち込みたいからね」
うっ、と飛雄馬は言葉に詰まり、店員が持ち寄った冷水のグラスに口を付ける花形を見据える。
自分から振ってきた話題だろうに、そんなことを言うのか。相変わらず、痛いところに触れてくれる。
空腹も相俟って、苛立つ飛雄馬の前に救世主のごとくエビフライがライスと共に運ばれてきて、ホッと一息を吐く。花形が頼んだハンバーグもまた同じように彼の前に置かれ、店員は伝票をテーブルに置くと去って行った。
タルタルソースのかかった綺麗なきつね色をしたエビフライが白い皿の上に三本と、付け合せの千切りキャベツが乗せられている。
よかった、場が持たないところであったと飛雄馬は安堵し、いただきますと両手を合わせてから、ふと、カトラリーボックスの中に箸が入っていないことに気付く。参ったな、フォークとナイフを使うのにはまだ慣れていない。箸を持ってきてもらえるよう伝えるかと手を挙げかけたところで、花形が近くを通った店員に箸を二膳と伝えたのだ。
店員はそう間を置かず、箸を持ち寄るとカトラリーボックスへと二膳の箸を滑らせた。
「食べないのかね」
箸を手にし、そう尋ねてきた花形に対し飛雄馬は、ありがとうと例を述べると自分もまた、箸を取る。
今のは花形の気遣いだろうか。
彼は、おれがフォークとナイフを器用に扱えないことを知っているのだろうか。
箸を遣うのか、とからかわれるかもしれぬと一瞬でも頭をよぎった自分を恥じて、飛雄馬はハンバーグに手を付ける花形を見遣った。
「お、美味しいですか」
そうして、ふと、そんなことを尋ねてしまう。
この店のハンバーグはおれ自身もそうだが、ねえちゃんも伴も気に入っている。店を訪れる客の大半もこれを食べに来ているとの話だ。
花形の口には合っただろうか。彼は、気に入ってくれるだろうか。
花形はゆっくりと頷き、口の中のものを飲み込んでから、美味しいさ、とてもね、と答えてくれ、飛雄馬はふっと表情を緩めた。
「よかった。おれもねえちゃんもこの店のハンバーグが好きなんです。花形さんにそう言ってもらえて嬉しいよ」
「…………」
飛雄馬はエビフライを頬張り、皿に乗った米を口へと運ぶ。大きな海老の身は甘く、タルタルソースによく合う。
「いつかねえちゃんとも来たらいい。ふふ、今日はおれとで悪いけど」
「そんなことはない。明子さんにはいい機会を与えていただけ感謝してもしきれんよ」
「え?」
「こっちの話……フフ、食事に集中したまえ」
黙々と食事を飛雄馬は続け、先に食べ終えた花形がコーヒーをふたつと注文するのを見守る。
それから、食事を終えたと同時に運ばれてきたカップにミルクと砂糖を投入し、好みの味に調整したコーヒーを口に含む。
「明日は出るのかね」
ぽつりと花形が独り言のように溢し、飛雄馬は、え?と聞き返す。しばしの間ののち、試合のことかと合点し、出ますよと答える。
「そちらは?」
「むろん、語るまでもないだろう」
「ふふ……」
互いにカップに口を付け、暗黙の了解とばかりに微笑む。昨日の友は今日の敵とは先人はよく言ったものだと飛雄馬は目の前に佇む彼との勝負を夢想し、カップを握る手に力を込める。
今日、一緒に食事をしたからと言って手加減はしない。それはもちろん花形とて同じことだろう。
「では、また明日。会えるのを楽しみにしているよ」
「あ、はな……いや、ねえちゃんが来るのを待たないんですか」
「……明子さんには先程お会いしたのでね。明日のこともある。あまり長居もできんさ」
「…………」
そう言われてしまっては引き留めるわけにもいかず、飛雄馬は去っていく花形を見送る。
ふいに見遣った腕時計の短針はもう9を指しつつあり、ねえちゃんには悪いが、こちらも帰るとするかとコーヒーを二杯とも飲み干して席を立つ。
そうして、勘定を済ませるためにレジ前に立つと、席の位置を尋ねてきた店員に先程お帰りになられた方が代金はお支払いになりましたよと告げられ、飛雄馬は慌てて店の外へと出たが、花形の姿は影も形もなく、見慣れた風景がそこには広がるばかりであった。
「…………」
ねえちゃんからの伝言を頼まれてくれたばかりか、食事の代金まで払ってくれるとは。
おれは彼へ抱く印象を変えねばならないらしい。
と、向こうから駆けてくる人が見えて、飛雄馬は立ち止まる。想像どおり、駆けてきているのはねえちゃんらしく、飛雄馬は手を振った。
「ごめんなさい。遅くなってしまったわね。花形さんは?」
息を切らし、遅れたことを謝罪する明子に大丈夫だからと返して飛雄馬は花形がすでに立ち去ったあとであることを伝える。
「近くまで来たら給油に立ち寄ったっておっしゃって……ちょうど店長から残業をお願いされたばかりであなたに伝えようにももう家を出ている頃だしと困っていたら花形さん、自分が飛雄馬に伝えてくれるって申し出てくださったのよ」
「花形さんが、自分から?」
「そうなの。時間ができたら自分で喫茶店に電話をするから大丈夫とは言ったんだけどね……」
「おれはてっきりねえちゃんがお願いしたんだとばかり」
「まあ。そんなことできっこないわよ。花形さんに伝言を頼むなんて…………」
「…………」
「食事は済んだ?だいぶ待ったものね。ねえさんなら家にある有り合わせのもので食べるからこのまま帰りましょう。明日、試合なんでしょう」
言うなり、マンションへの道のりを颯爽と歩き出す明子の背中を見つめ、飛雄馬は別れたばかりの花形の顔を思い出しつつ、姉の話を反芻する。
花形は、なぜそうまでしてくれるのだ。 ねえちゃんにそんなにいいところを見せたいとでも言うのか。
惚れた人間の、弱みとでも言うのだろうか。
まめに送ってくる花束と菓子折のことと言い、なんてわかりやすいことをするのだろう。
飛雄馬は今頃神奈川までの高速を飛ばしているであろう花形の得意げな顔を想像し、ふふと小さく笑みを溢すと帰宅するためゆっくりと歩み始めた。