満月
満月 「星さんは、恋人とかいらっしゃらないの?」
「え?」
日高美奈の口から発せられたまさかの言葉に、飛雄馬の声は裏返る。
なんと答えようか、しばし考えてから飛雄馬は美奈から視線を外すと、真っ直ぐ前を向き、「野球が恋人です」と力強く、そしてきっぱりと言い切った。
ふたりが腰を下ろしているは日南海岸の浜辺、今日は満月らしく、黄色く丸い月が水面に映り込み、打ち寄せる波に煽られてゆらゆらと揺れている。
飛雄馬はそれを眺めつつ、さざなみに耳を澄ます。
「ふふ、そうなのね。美奈も星さんと同じ。仕事が恋人ですわ」
美奈の返答に飛雄馬はホッとしてしまった自分がいることを恥じ──それから、努めて平静を保ちつつ、そうですか、と笑顔を見せた。
「星さんは、なぜ野球を?」
「なぜ、ですか。今まで野球をやる理由を考えたことがなくて……」
「もしかして、お父様の影響かしら」
「え?」
飛雄馬は図星を突かれたことに驚き、海を眺めていた顔を隣に腰を下ろす彼女へと向ける。
凛としてこちらを見つめている美奈の視線に射抜かれ、飛雄馬は一瞬、口を噤んだが、直ぐさま、彼女の言葉を肯定した。
「星さんは、お父様が好きなのね」
「…………」
「星さんのお父様だもの。きっと素晴らしい、人間性の豊かな方だと思うわ。その人なりが星さんとの会話の節々からも見えてきます」
言うなり、ニコリと微笑んだ美奈の表情に飛雄馬はこみ上げて来る熱いものを懸命に飲み込んで、ありがとうございます、と頭を下げる。
「美奈さんのお父さんは、どんな方なんですか?」
おそるおそる、飛雄馬は美奈に己が尋ねられたことと同じ質問を返す。
「父は、美奈が高校を辞めて看護婦になることにいい顔をしなかったわ。高校も満足に卒業できない人間に看護婦なんか務まるか、って。でも、母は美奈のことを応援してくれました。美奈の信じる道を行きなさい、と」
「………」
美奈さんにも、そんな経験が、と飛雄馬は口を閉ざし、目を伏せる。
「大変なことも多いけど、美奈はこのお仕事が好き。沖先生や患者の皆さんに出会えて本当によかったわ。それに、星さんにも出会えたから」
「そ、それは……」
おれも、同じです──飛雄馬がそう、続けようとしたのを遮るかのごとく美奈は立ち上がり、帰りましょうか、とスカートに付着した砂をはたき落とした。
飛雄馬は喉元まででかかった言葉を飲み込み、美奈の後に続いて歩き始める。
雲が出てきたか、闇夜に煌々と輝いていた月もその姿を隠しつつあった。
もしかすると、明日は雨かも知れないななどと飛雄馬は考えつつ、砂浜を踏みしめ、一歩一歩力強く歩んでいく美奈の後ろ姿を見つめる。
いつか、この想いを告げられる日が来るだろうか。
それとも、一生胸に秘めておき、野球に生きるべきだろうか。
「明日、雨が降るかもしれないわね」
「あ、あの、えっと、雨だったら練習が、休みになるので、よかったら会いませんか?美奈さんの都合が合えばの話ですけど」
「……ふふ、是非」
振り返り、微笑んだ美奈の名を呼び、飛雄馬は少し小走りになると彼女の隣を歩み始める。
ああ、できればこの関係を壊したくはない。
できることならずっと美奈さんと話をしていたい。
飛雄馬は、隣を行く美奈の横顔を見つめつつ、心の中で、あなたが好きです、と一言、囁いてみる。
むろん、返事が返ってくることなど有り得ないが、飛雄馬は彼女の笑顔が見られる、それだけで満足であった。
波の音が心地よく耳をくすぐる。
飛雄馬は半分ほど雲に隠れた月を仰ぎ、その姿を目に焼き付けた。