真夏の夜の夢
真夏の夜の夢 星さん……星さん、あなたも早くこっちへ……星さん……
飛雄馬は、薄い煎餅布団の上でハッ、と目を覚ますと自分がびっしょりと汗をかいていることに驚き、上体を起こしてから首を振る。タイマーをかけていた扇風機はとっくに消えており、日雇いの金で借りた狭いホテルと称するにはあまりに簡素な──ドヤ街の宿所の一室はひどく蒸し暑い。
嫌な夢を見た。
濡れて額に貼り付いた前髪を掻き上げ、飛雄馬が手探りで扇風機のスイッチを入れると、人工的な風が室内のぬるい空気を掻き回す。
今、何時だろうか。
時間を確かめようと飛雄馬は部屋の灯りを付けるべく、布団の上で立ち上がる。と、月明かりひとつ差し込まぬ深夜だと言うのに、目の前にぼんやりとした白い人影が立っていることに気付いて、ギクリとその場で動きを止めた。
まだ、夢を見ているのか。これが俗に言う幽霊と呼ばれるものだろうか。しかし、誰かに恨みなど持たれるようなことはしていない──いいや、そうとも限らないのが、プロの世界──他球団の選手や観客らから恨まれたなど一度や二度ではあるまい。
贔屓の球団が負け続けた人間の、あるいは、戦力外通告を受けてしまった選手の怨念か。
灯りをつけても、大丈夫だろうか。
ふと、動いた瞬間に、目の前のこの白い靄のようなものが牙を向き、襲いかかっては来やしないだろうか。
『……さん、……星さん……』
「…………!」
飛雄馬は、目の前の白い人影が、自分の名前を呼んだことに驚き、思わず、美奈さん!と口走ってから、慌てて口を噤む。
おれは、なぜ、今、彼女の名を……?
『よかった、覚えていてくださったのね』
幻想か?真夏の夜の夢か?おれは一体、何を見聞きしている?なぜ、この白い人影は、おれの名前を知っている?
続く言葉が出てこず、口ごもった飛雄馬だが、目の前の白い人影は更に言葉を続ける。
『美奈ですわ、星さん。つい、あなたに会いに来てしまいました』
「っ、……」
つい先程まで、その彼女に──癌に冒され、痩せさばらえてしまった日高美奈に──暗い闇の中から呼ばれる夢を見ていた飛雄馬は、どっと冷や汗が全身に滲むのを感じた。
あなたに出会わなければ、私はもっと長生きできたのに、と彼女は冷たく、低い声でおれにそう囁いた。
彼女は、夢で見たとおりの言葉を吐き、おれを地獄に引きずり込もうとでも言うのか。
『星さん、美奈はあなたに出会えてよかったと、あの日日南海岸であなたにそう語ったわ。今でもそう思っています。後悔なんてしていない。あなたのような素晴らしい人に出会えて、私の人生、とても幸せだったの。それを伝えたくて……ごめんなさい。驚かせてしまったでしょう』
「み、美奈さん……」
『私のことを気にして、あなたが前に進めないのではないかと心配になってしまって……嫌な女ね、美奈ったら』
くすくす、と目の前の人影が笑い、飛雄馬の双眸からは涙が溢れ、頬を伝う。
『あなたは、自分が思っている以上に強くて、そして弱い人だわ。でも、それは悪いことじゃないの。私はそんなあなただから好きになったのだから』
「っ、ずっと、それを考えていました。おれが美奈さんを毎日のように呼び出し、連れ歩かなければもっとあなたは長く生きられたのじゃないかと、もっと……」
『美奈は、あなたから電話がかかってくるのを心待ちにしていました。でも、あなたにはあなたの目指す星がある。美奈だけを……いえ、一瞬でも、ほんの少しでもその星だけでなく、美奈のことを見つめてくれたのだから、とても嬉しかったわ。だから、もう迷わないでほしいの。星さんには、自分の進むべき道がもうわかっているはず』
「み、美奈さん……」
呟いて、飛雄馬は目の前の人影に手を伸ばす。
と、その影に触れることなく、ハッ、と目を覚ますと、自身は変わらず薄い煎餅布団の上に体を横たえており、扇風機は室内のぬるい空気を延々と掻き回しているばかりだった。
夢、だったのか?と半信半疑のまま、体を起こしてみれば、泣いていたのか目元が濡れ、視界はぼやけている。とっくに夜は明けており、煙草の臭いが染み付いた狭い室内にも朝日が差し込んでいた。
これからの行く末を悩む自身が見た幻覚か、それとも正夢だったのか。部屋の中にはうっすらと、花の匂いが漂っている。彼女の棺に入れた、あの百合の匂い。
「…………」
布団の上でじっと見つめた両手には、日雇いでできたまめが潰れ、皮膚は幾重もの厚い層になっている。
おれの、進むべき道、か。
飛雄馬は拳を握り、目を閉じる。
目元に溜まっていた涙が頬を滑り、顎を伝い落ちた。
飛雄馬は身支度を整え、その足で宿を後にすると、近くにあるスポーツ用品店で新品のバットと硬式のボールを購入すると、人のいない、空き地でひとり、バッティング練習を始める。
投げることのできなくなってしまったおれだが、打つことならできるかもしれない。振るわぬ巨人の戦績に嘆く、長島さんの役に立てるかもしれない。
球を放り、それを打つことを何度か繰り返し、飛雄馬は手の痛みに顔をしかめ、一度バットから指を離す。まめが潰れ、皮膚は破け、バットも掌も血に濡れている。これでは練習にならない。人を立てなければ、いや、バッティングマシンを……。
確か、通帳に現役時代の蓄えが……しかし、置く場所は……。
飛雄馬は首を振り、すっかり高くなってしまった日を仰ぐ。美奈さん、あなたが示してくれた道を、再び歩めるようになったらきっと会いに行きます、と、己を煌々と照らす太陽に向かって、そう胸中で自分に言い聞かせるよう囁いてから、飛雄馬はバットと球を拾い、再び歩き出す。
どこか人目のつかぬところに、マシンを据え置ける場所を探し、バッティング練習に打ち込むべく……。