迷子
迷子 数ヶ月ぶりの関東──懐かしいような、はたまたうんざりとしてしまうような人混みの中をひとり、上着の襟を締めながら歩く飛雄馬の耳に女の子の泣き声が聞こえたような気がしてはたと彼は歩みを止めた。
そうすると、急に飛雄馬が立ち止まったせいで、後ろを歩いていたスーツ姿の男が肩にドンとぶつかって、気をつけろ!と怒鳴ってきた。
飛雄馬は一言謝ろうと振り返ったが、既に彼の姿は人混みに紛れ分からなくなっており、僅かに開いた唇を再び閉じ合わせると、地面に落ちたYGマークの野球帽を拾い上げる。
「あんちゃ〜ん!豊作あんちゃ〜ん!どこに行ってしもうたと〜」
今度はハッキリと少女の嗚咽が耳に入って、飛雄馬は辺りをキョロキョロと見回しながら彼女の姿を探す。
確か豊作あんちゃんと言っていたか。
あの独特の九州訛り。一度聞いたら忘れようがない。前へ進む人混みに逆行しながら飛雄馬は道行く人を掻き分け少女の姿を探し、瞳からポロポロと大粒の涙を幾重も伝わらせつつ歩く彼女をやっとのことで見つけ出す。
「あんちゃ〜ん。どこね〜!」
「…………ねえ、きみ!」
少女を呼び止め、飛雄馬は注意をこちらに向けさせる。彼女は俯けていた顔を上げて、アタシがこつ?と訊いてきた。
それを肯定するかのように頷いて、飛雄馬はおいで、と彼女の目線付近まで身を屈めてから手を差し出す。
すると、まだ幼い、小学校に上がる前くらいの年齢であろう少女はぱあっと顔を輝かせ、飛雄馬の手を力強く握った。
ニコッと飛雄馬はサングラスをかけたままではあるが口元に笑みを湛え、もう大丈夫だよ、一緒にあんちゃんを探そう、と少女にそんな優しい言葉を投げかけて、彼女もまた心底ホッとしたかウンと頷く。
少し人の流れから外れた歩道の隅にまで身を寄せてから、涙で濡れた少女の顔を飛雄馬は指で拭ってやると今日はあんちゃんとふたりで来たの?とも尋ねた。
「そうたい。久しぶりの休みだけんて、あんちゃん私ば連れ出してくれたとよ。それなのに迷子になってしもうて、あんちゃんに合わせる顔がなかばい」
飛雄馬の手をぎゅうっと握って少女はまたじわりと瞳に涙を滲ませる。
「どの辺ではぐれたとか、覚えている?」
「覚えとらん。いつも行くレストランにお昼ば食べに行くつもりでおったとじゃけど、手ばしっかり握ったつもりだったとが、いつの間にかあんちゃん、おらんようになっとって……」
「その、レストランの名前は分かるかい?」
飛雄馬が訊くと、少女はたどたどしい口調で横文字を口にし、ああ、それなら、と飛雄馬は店のある方角に視線を遣ってから、行こう、と彼女の手を引いた。
「えっ、ばってん、行き違いになってしもうたら…………」
「下手に、歩き回るより目的の場所で待っていた方がいい。大丈夫だよ」
「おにいさん、優しかね。私、ずっと泣いとったばってん、誰も声かけてくれる人おらんかったよ」
「……………きみの言葉、どこか懐かしい気がしてね」
自分の手を強く握ってくる小さな指を握り返しつつ、飛雄馬は帽子をもう一方の手で目深にかぶり直し、少女の歩調に合わせ目的地までの道のりをゆっくりと歩く。
「さっきから思うとったけど、どこかで聞いたような声しとるね。初めて会った気がせんよ」
「ふふ、そうかい?不思議とおれもそう感じていたところだ」
それもそうだろう、と飛雄馬はニコニコと自分を見上げてくる少女の顔をサングラスのレンズ越しに見つめながらかつての思い出を反芻する。大洋ホエールズの左門豊作と言えば兄弟思いの優しい兄として知られ、その幼い弟や妹たちの姿もよく球場で見かけたし、新聞にもその兄弟愛が取り上げられることが多かった。
姉のいる弟の立場である飛雄馬からしてみれば何となくその兄と慕われる左門豊作の姿が羨ましくも映ったし、反面、幼き弟や妹らのために己を押し殺し彼らを優先する姿がどこか自分にも重なって見える気がした。
血の繋がりというものは時として残酷だ。
左門はそんなことを思ったりはすまいが──と飛雄馬は唇を引き結んで、自分の兄のことを嬉しそうに自慢する少女の言葉を黙って聞いていた。
そうして、しばらく歩いていると少女が兄と来る予定だったレストランが見えてきて、彼女は、「あの店たい!」とこれまたにこやかな笑みを浮かべ飛雄馬を仰いだ。
すると、向こうから見知った顔がハッとこちらに気付いたか駆け寄ってきて──飛雄馬は少女から手を離すと彼もまた、弾かれたように背を向け駆け出す。
「あっ!!」
突然、手を離された少女は不安げに飛雄馬を呼んで、その声がやたらに胸を刺したが振り返りもせず、はたまた脇目も振らず人混みに紛れるようにしてひとり、走った。
「星くん!星くんじゃろう!!!!なんで行ってしまうとか!!」
背後から浴びせかけられた怒号とも取れる声を無視して飛雄馬は走る。
「星くん!!皆、皆きみを探しとる!!伴さんも、花形さんも、きみのお姉さんも、それに、うちの京子も──」
ああ、なんと懐かしい名だろう──。
星?星って言ったか?昔、巨人にいた星飛雄馬か?あれは大洋の左門だろ?なんて声を聞きながら飛雄馬は駆ける。
教会で挙げられたふたりの結婚式を窓の外から眺めたのもこんな寒い日だったか。
皆に祝福されながら幸せそうに微笑む彼と、自分のせいで傷を負ってしまった彼女の。
息が切れるまで飛雄馬は走ってから、ふと立ち止まる。繁華街から外れた、道を行く人は疎らないわゆる路地裏と呼ばれるような場所。
彼の、左門の声ももう聞こえることはなく、立ち止まったところで肩にぶつかってくるような人もここにはいない。
飛雄馬ははあっ、と大きく息を吐いて、帽子を一度取り額の汗を拭うと再びそれを頭にかぶる。あんた、巨人の星だろう!?と軒先で洗濯物を取り込んでいた白髪頭の老人が目を丸くし、こちらを見つめてきたが、飛雄馬は、「いえ、人違いです」と彼を躱し、歩み始める。
老人は何やら腑に落ちぬ様子ではあったが、それ以上突っ込んでくることもなく、飛雄馬は両手をスラックスのポケットにそれぞれ差し込みつつ先を行く。
昔、おれもああしてねえちゃんの手を繋いで歩いた覚えがある。ねえちゃんの手は暖かくて、優しくて、大きかった。
ふ、と飛雄馬は口元を緩ませ、前を見据えると雪の舞い始めた関東から離れるべく、駅に向かって歩み出した。