待ち伏せ
待ち伏せ 星、と飛雄馬は名を呼ばれ、トレンチコートを纏った出で立ちの男――伴宙太を球場の出入り口から一人、スタジャンを羽織ったユニフォーム姿のまま見据えた。 そしてそのまま、一瞬目を見開いて驚いたような表情を見せたものの、ついと視線を伴から逸らしてこの場から早急に離れるべく歩調を速める。
すると再度、伴は星、と呼びその腕を掴もうとするが掴ませまいと飛雄馬は手を振った。
「中日の選手が、何の用だ」
「………」
いつもの弾むような、親しげな声ではなく、冷たく何の感情も篭っていないような声色で飛雄馬は伴に問うた。
「東京に、来る用事があったからのう、それで」
「それで?何の用だと聞いている」
「………」
伴から距離を取りつつ飛雄馬は訊く。無視せずきちんと尋ねたのは彼なりの優しさか。伴は視線を泳がせ、ぎゅっと拳を握る。
「近くまで、来たから、顔くらい、見たいと思ったんじゃが」
「……そんなもの、中継で嫌というほど見ているだろう」
「そうじゃ、そうじゃのうて……」
「女々しいぞ伴!いい加減にしろ!」
振り返って、飛雄馬は叫ぶ。伴は目を瞬かせ、振り絞るような声で、すまん、とだけ言葉を紡ぐ。
「………何の用で東京に来たのかは知らんが、早く帰らんとまたとうちゃん、いや、星コーチの雷が落ちるぞ」
「ほ、星コーチにも監督さんにもちゃんと訳を話して来とるわい!」
「だからと言って道草を食っていていいと言うこともあるまい。おれはきみと話すことなど何もない。疲れたんだ」
帽子を目深に被り直して、飛雄馬は前を向くと再び歩き始める。
「ほ、星」
伴は叫んで、前を行く飛雄馬の肩を掴むと、そのまま彼の体を背後から強く抱きすくめた。
「…………!!」
「星、会いたかった……」
「伴!放せ!やめろ!」
「いいや放さん!誰が放すもんかい!」
怒鳴るようにして言う伴の腕の力がより一層強まって、飛雄馬は目を閉じる。ああ、どれほど恋しかったか、どれほど待ち侘びたかこの腕の強さを、体温を、この名を呼ぶ愛しい声を。奥歯を噛み締め、飛雄馬は眉間に皺を寄せる。
もうこのままこの腕に抱かれたまま、何もかもを忘れてしまいたい。野球の辛さも、厳しさも、あの日高美奈の死を以て終焉を迎えた恋の苦しみも何もかもをこの腕が救ってくれた。この体温がいつでもそばにあったからおれは巨人の星飛雄馬でいられたのに。
「っ………」
固く閉じた双眸から飛雄馬のまつげを伝って涙が頬を滑り落ちる。冷えた肌を熱い涙が伝って、顎から首筋へと落ちた。
「おれは、おまえが、星がっ……どこへも行くなと言うのなら、おれは」
「伴!それ以上は口にしてはいかん!」
突如として飛雄馬が大きな声を発したために、伴の腕が緩んだ。その隙を突いて飛雄馬は彼の腕から抜け出す。
そうして、涙に濡れた瞳、まだ頬を滑った涙の筋の乾かぬままの顔で伴を仰いだ。
「幸福は、肉体の健康によろしい。だが、精神力を発達させるのは、心の苦しみである……ふふっ、伴よ。おまえとともに過ごした日々は幸せだった、けれども、二人このままぬるま湯に浸っていてはどうにもならんのだ」
「………」
「愛知に、帰れ、伴よ。おれは一人でも大丈夫だから」
こみ上げる涙を飲み込み、飛雄馬は無理に笑顔を作ってそんな言葉を口から発する。
「星、はあの日、言ってくれたのう。川上監督からトレードはしない、と電話のあった日のこと、覚えちょるか」
「伴!もうよしてくれ……聞きたくない、聞きたくないんだ!」
顔を振り、飛雄馬は耳を塞ぐ。
「おれのことをすきだ、と。そうして、おれも星に言った、おまえを愛しとるとな」
「伴!やめろ!」
飛雄馬は顔を振って、その場にガクリと膝を着く。
中日の三塁コーチとなった星一徹が伴宙太のトレードを申し込んだ際、飛雄馬は伴のためを思い、おれの捕手役で終わることはないと言って、彼に中日に行くことを勧めた。
しかして結局、その後すぐに巨人軍監督川上哲治氏から飛雄馬宅に電話があり、伴のトレードには応じぬ、とそう話が纏まったとの連絡を受け、二人は手を取り合って喜んだ。
「……おれはおまえを、星を愛しちょる。友人以上に思っとるんじゃい」
伴は川上監督から連絡を受けたあと、飛雄馬にそんな台詞を吐きかけた。
「………ああ、おれも伴がすきだぞ」
涙と鼻水とに濡れた顔で飛雄馬は伴に向かって笑顔を見せた。それから触れ合わせた唇の熱さ、肌のぬくもり。ああ、どこにも行くな、と。ずっと隣りに居てくれ、と口に互いには出さぬものの目と目で約束したあの日。
「その気持ちは、今も変わらんか、星よ」
「………もう、おれとおまえは、敵なのだ。大リーグボール二号の謎が明かされた今、おれと伴とを繋ぐ絆も、約束も、何もかも消え失せた」
「………」
地面に両手を着き、頭を垂れて言う飛雄馬に差し伸べかけた腕を伴は引っ込め、奥歯を噛み締めると指をその掌に強く握り込む。
「ふ、ふふ、そうじゃな。生半可、愛しとるだの何だのと余計な思いを抱いておるよりは、ハッキリキッパリと別れていた方が、気が楽じゃからのう」
「っ………」
飛雄馬もまた、その場に膝をついたまま顔をしかめ歯を食い縛る。しかして、その表情は伴からは見えない。
「星よ、次にきさまと会うときは、見事打ち取ってみせようぞ」
「………伴」
「時間を取らせて悪かったのう。ゆっくり休めよ」
「ああ……」
目の前で踵を返し、歩み出した伴の後ろ姿を飛雄馬は顔を上げ見つめる。おれは、あの腕に打たれるのか。
高校時代より励まし合い、慰め合い、時には強烈な叱咤を受けここまでやってこられた。友を相手に何千、何万と投げた球をその友が打ち取るというのか。
運命の神と言うものはなんと残酷であり、なぜこうも悲劇を望むのだろうか。
はあっ、と飛雄馬は溜め息混じりに声を上げ、天を仰ぐとジャンパーの袖で涙を拭うと立ち上がる。
もう友の、かつて愛を語り合った彼の姿はとうに見えない。一度大きく顔を左右に振ってから飛雄馬は立ち上がり、歩き始める。冷たい木枯らしが吹き荒れて、一人、飛雄馬は白い吐息を吐きながら帰路に着く。頬に一筋、涙の線が新たに出来たものの、彼はそれを拭うこともなくただ一人、歩いた。