「星くん!」
ユニフォームから私服に着替え、伴との約束の時間には十分間に合うなと手首にはめた腕時計に視線を遣りつつ、選手出入り口から球場の外へ出た飛雄馬を呼び止める声があった。
独特の九州訛りで自分を呼ぶその声の主に飛雄馬は覚えがあり、手を振りつつこちらに駆け寄ってきた左門の名を口にした。
「はあ、ふう。間に合ったばい。急に呼び止めてすんまっせん」
「左門さんがわざわざ、おれに何の用です?」
首を傾げ、飛雄馬は血相を変え駆けてきた左門にその真意を尋ねる。
「いえ、一言、お礼ば言いたくて」
「お礼?」
「わしと、京子のことですたい」
礼を言われるようなことはしていないが、と飛雄馬は思ったものの、左門が続けざまに口にした京子の名にハッとなった。
「……………」
「わしは星くんに背中ば押して貰わんかったら、今でもきっと独り身のままだった。うんにゃ、身の程知らずの恋に身を焦がし野球なんかできんかった。星くんはわしだけでのうて、弟や妹たちも救ってくれた恩人ですたい」
「何を今更、フフ。幸せそうなお姿、いつもグラビアやテレビで拝見していましたよ」
「わしも京子も、弟や妹たちも星くんの身ばいつも案じとりました。帰ってきてくれて、本当に嬉しか」
九州男児らしく普段は寡黙で無口な左門が珍しく饒舌につらつらと思いを語る。
その分厚い眼鏡のレンズの下で泣いているのだろうか、頬を滴が一筋滑り落ちた。
「…………」
優しい人だ、と飛雄馬は左門を前に、そんなことを思う。
幼い弟や妹のために、我慢することも多かっただろう、辛い日々もあっただろう、泣きたいこともあっただろう。
それでも、それを微塵も感じさせず地道に他球団の選手ひとりひとりデータを集め、研究しては試合に生かすその真摯さ、真面目さ。
努力と、根性の結晶のような人である。
「末永く、お幸せに。左門さん」
微笑み、飛雄馬は心からの祝福を口にする。
「いつか、星くんに会えたときにお礼ば言いたかとずっと思っとりました。本当はこげんこつ言うとおかしかばってんが、星くんのこれからの活躍、期待しとります」
左門は力強く飛雄馬の手を握り締めると、いつかうちに遊びに来てほしい、とそんな旨の言葉を口にした。
「手土産を持って、いつか遊びに行きますよ」
「皆、恩人の星くんに会うとば楽しみにしとりますけん」
いきなり驚かせて申し訳なか、と左門は別れ際、そう言って頭を下げた。
「いえ、気にしないでください」
では、と去っていく左門に手を振り、飛雄馬もまた踵を返すと歩き始める。
明日の対戦相手もまた、大洋戦。
左門さんの幸せを願った気持ちに嘘はないが、明日の試合、もちろん負けるわけにはいかないしそのつもりも更々ない。
左門さんは家族を養うため、あの頃以上に必死で球に食らいついて来ることだろう。
好きな女性のために頑張れる、ということは羨ましい限りだし、より一層生活に張り合いも出ることだろう。
「…………」
飛雄馬はふと、立ち止まり、空高く煌めく星々を見上げる。
これまでにも幾度となく見上げては様々なことを考え、それぞれに思いを馳せたあの頭上輝く巨人の星。
遠く宮崎の地に眠る彼女は、自分が時折こうして思い出すせいでもしかすると成仏できないのではなかろうか。
これから先の人生、宮崎で墓守でもしつつ暮らそうかと考えたこともあった。
ふふ、と飛雄馬は苦笑し再び歩き始める。
それでもおれはまたこうしてユニフォームに身を包み、球場に立っている。
観客もいなくなり、選手たちも皆帰ったのであろう。飛雄馬もまた、宿舎へ帰るべく閑散とした球場に背を向け、ひとり、歩いた。