救済
救済 お客さん、お客さん。閉店の時間だよ!
ねえ、起きてくださいよ!お客さん!
肩を揺さぶられ、飛雄馬はゆっくりと目を開ける。
ぼんやりとしたまま、ここがどこであるのか記憶の糸を手繰り寄せているところで再び、お客さん!とやられ、飛雄馬ははっきりとしない頭を押さえつつテーブルに突っ伏していた顔を上げた。
目の前には白の調理衣を身に纏った厳つい男が立っており、飛雄馬はそこでようやく己の状況を把握する。
おれは、確か日雇いの帰りに定食屋に寄って夕食を食べたのだったか。
そしてチャンネルがちょうど合わせられていた巨人戦のあまりの酷さについつい焼酎を注文し、それを1杯、2杯と煽るうちにいつの間にか寝てしまっていたらしい…………。
満席状態で賑わっていた店内も今は静寂さを極め、中に残るは飛雄馬ひとりと言う状態であった。
「あ、すみません……」
テーブルに突っ伏していたせいでずれ落ちてしまっていたサングラスを定位置に戻し、飛雄馬はお勘定……とスラックスの尻ポケットに手を遣ったが、そこにあるはずの日銭は影も形もなく消え去っており、一瞬にして血の気が引いた。
「なに?金がねえのか?ふざけやがって!警察に突き出してやる」
「…………」
飛雄馬は弁解するでもなく頭を垂れ、ぐっと唇を引き結ぶ。
正直に盗られたと申し出たところで真実だと証明できる術もなく、それなら変に言い訳などせず、最初から金銭を持ち合わせていなかったことにしてしまった方が心証がいいに違いないと踏んでのこと。
ぶつぶつと口元で何やらぼやきながら、恐らくこの店の店主であろう彼が店先の黒電話の受話器を手にしたところで、出入り口の引き戸が勢い良く開かれた。
「お客さん、もう閉店だよ。暖簾引っ込めてあっただろ」
受話器を一旦、戻してから店主が呟く。
しかして、戸を開けた彼が口にしたのはまさかの言葉で──。
「ぼくは食事に来たわけではない。そちらの彼に用がある」
「…………!」
飛雄馬は戸を開け、顔を出した思いもよらぬ人物の登場に呆けたと同時にその姿に釘付けになり、瞬きさえも忘れた。
誰が忘れるものか、この男の顔を──。
「なにぃ?お宅が?この無銭飲食野郎とか?まぁいい、細かいことは聞く気もねえが、このお方が飲み食いした分の代金、払ってくれよ」
店主は彼のそばに歩み寄り、挑発するようにその顔を睨みつけた。
「っ、やめてくれ。おれはあんたの世話には」
「…………」
飛雄馬の言葉に、店に顔を出した彼は一瞥をくれはしたものの何を言うでもなく、財布から万札を5枚ほど取り出すと、迷惑料込みだ、と言うなり店主の手にそれを握らせた。
「ひっ、ひえっ!そんな」
「行こう」
「おれは……」
「嫌とは言わせない」
「…………」
まさかの大金を手にし、動揺する店主を尻目に、彼──花形満、は飛雄馬の腕を掴むとそのまま店を後にした。
店の前にはこれまた高級そうな綺麗に磨き上げられた黒の外車が停まっており、飛雄馬はそこで足を止める。
「…………」
花形は立ち止まった飛雄馬を振り返ると、まだ何か?と彼を気遣うような台詞を吐く。
「なんのつもりでおれを助けた?なぜおれがここにいるとわかった?」
「おやおや、まるで尋問みたいじゃないか。フフ……窮地を救った義兄に対する第一声がそれかね」
「う……っ」
「なに、気にすることはない。きみの、飛雄馬くんの役に立てたのなら嬉しいよ」
おもむろに花形はスーツのジャケットからシガレットケースを取り出すと、中から取り出した1本を口に携え、擦ったマッチでその先に火を灯した。
「…………その、ありがとう……花形、さん」
「…………」
いつの間に煙草を?と飛雄馬が慣れた手つきで煙草を嗜む花形の姿を見つめていると、ふいに彼がまだいたのか、と尋ねてきたために、ギクッ!と身を強張らせる羽目になる。
「借りを作ったままなのは、好きじゃない」
サングラスの奥、その瞳で真っ直ぐに花形を捉えつつ飛雄馬は口を開く。
「借り?フフ、きみの性格上、そんなこと気にするな、と言う方が無理な話だ。それなら少し付き合いたまえ」
足元にぽとりと落とした煙草を靴底で踏みにじって、花形は吸い殻を拾い上げると、これまたポケットから取り出した吸い殻入れへとそれを押し込んだ。
この一連の流れも彼らしいといえばそうだろう。
しかし、まさかこんなところで彼に会うとは思いもよらなかった、と飛雄馬は招かれるがままに外車の後部座席に乗り込み、背後に流れゆく風景を黙って眺めていた。
「商談が近くであったのさ、というのは建前に過ぎんが、興信所からこの付近で飛雄馬くんらしき人物を見かけたとの情報が入ったものでね。居ても立ってもいられず駆けつけてしまった」
「…………」
後部座席で足を組み、飛雄馬はYGマークの野球帽を目深にかぶり直すと黙り込む。
結果として助けられたが、花形はずっと店の前でおれが出てくるのを待っていたとでも言うのだろうか。妻であるねえちゃんのことも、継いだと聞く会社のこともすべて放り出して。
そんな危ない真似をしてまでなぜ、花形はおれの前に姿を現したのか。
考えたところで答えは恐らく導き出されることはない。この天才の名を恣にする花形の考えることがおれにわかるとは到底思えない。
そのうちに花形の運転する車はどこをどう走ったのか飛雄馬には見当もつかぬまま、海沿いの建てられてまだ間もないであろうホテルに到着し、その壮大な敷地面積の広さを彼に見せつけることとなった。
まったく状況の飲み込めぬままに飛雄馬は花形に連れられ、フロントを抜け、エレベーターに揺られ到着した先、目的の部屋へと連れ込まれた。
「ゆっくり休むといい。飛雄馬くんのことだ。休むのはいつも安宿で寝泊まりしているのだろう。ぼくのことは気にしないでくれたまえ」
ニコリと花形は微笑むと、脱いだジャケットをハンガーにかけ、クロゼットの中に仕舞い込んでから再び煙草を咥える。
「どういう、つもりだ?気味が悪い。こんなことをしてもらう義理はない」
「義理?物事をすぐ小難しく考えるのはよしたまえ。ただ単に、ぼくは飛雄馬くんにゆっくり休養を取ってもらいたいだけのこと」
火をつけた煙草をくゆらせつつ、花形は手首に巻いていた腕時計を外すと部屋に備え付けられていたテーブルの上にそれを置いた。
「さっきも同じことを言ったが、おれは花形さんに借りを作りたくはない」
「こうして付き合ってもらっているだけでぼくは嬉しいが。ろくに飛雄馬くんとは話らしい話もしたことがなかっただろう」
「…………」
だからなんだと言うのだ。
今更、何を話すというのだ。
おれと花形の共通の話題といえば野球くらいなもので、気の合う友人同士のように気さくに話ができるような間柄ではないはず。
伴よりも付き合いは長いが、おれは花形のことは何も知らんのだ。
「そうしゃちほこばらんでもいいだろう。なに、もう互いにライバルというそれでもない。今や明子はぼくの妻できみはぼくの義理ではあるが弟に当たる。伴くんの近況も知りたいだろう」
「……汗を、流したい。日雇いの仕事のままでな」
「それは、気がつかず申し訳ないことをした。浴室はそちらの扉を開けたらすぐだ。ごゆっくり」
「…………」
飛雄馬は帽子を脱ぐと、サングラスを外し、花形が時計を置いたテーブルの上にそれらを並べてから浴室の扉を開ける。
まだ新品同様の浴室及び洗面所を汚すのは気が引けるが、後には引けない。
飛雄馬は服を脱ぐとシャワーの湯の調節をし、熱めの湯を頭からかぶった。
ホテルなどという立派な場に身を置くのはジャイアンツで活躍していた頃以来になるか。
花形の言うとおり、おれがいつも寝泊まりしているのは日雇い労働者が集う、寝るばかりの娯楽の品など何もない狭く薄暗い部屋。
それでも、雨風を凌げるには十分である。
水で薄められた泡立ちの悪いシャンプーではなく、これまた良い匂いのするシャンプーで髪を洗い、ボディーソープなどという小洒落たもので体を洗って、浴室の扉を開ければいつの間に用意されていたのかタオルと何やらタオル地の浴衣のようなものが洗面所には置いてあり、飛雄馬は眉間に皺を寄せた。
花形はこんなに気が利く男であったのだろうか。
ねえちゃんは、彼のこういうところに惹かれたのだろうか。
飛雄馬はタオル地のいわゆるバスローブと呼ばれるものを身につけ、頭を拭いつつ洗面所を後にする。
するとこれまたいつの間に頼んだかビールの瓶を傾け、グラスに琥珀色の炭酸を注ぐ花形の姿が目に入って、飛雄馬は唇を引き結ぶ。
「きみも1杯やりたまえ。栓を開けたばかりだ」
「いらん。寝る前に飲むと眠りが浅くなる」
「…………」
「く、っ……」
先程の定食屋での一件が頭をよぎって、飛雄馬は花形が注いだばかりのグラスを手に取ると、それを一息に喉奥に流し込んだ。
「フフ、飲めるじゃないか。まあ、そこに座りたまえよ」
「休ませたいと言ってくれたのは花形さんだろう。それなのに付き合えと言うのは矛盾しているとおれは思うが」
「……どうも、酔っているらしい。きみに会えたのが嬉しくてね。ついつい調子に乗ってしまったようだ。ぼくも汗を流してこよう。寝ていてくれて構わんよ」
「…………」
言うと花形は瓶の中身をすべてグラスに注ぎ入れると、一気に煽ってからひとり、浴室へと消えた。
飛雄馬はその姿を見送って、バスローブを脱ぐとベッドの上に置かれていたセパレートタイプの紺のパジャマに身を包む。
脱いだ下着を穿こうか迷ったものの、そのままズボンに足を通すことに決め、近頃のホテルはこんなものの用意もあるのかと舌を巻きつつ、飛雄馬はさらりと肌触りのいいパジャマを纏うとそのままベッドに潜り込んだ。
柔らかな掛け布団に包まれ、飛雄馬は久しぶりの糊の効いた清潔なベッドシーツを背に体が温まっている上にアルコールを微量摂取したせいか、数分と持たず夢の世界へと旅立つ。

そうして、どれくらい時間が経ったであろうか。
飛雄馬はハッ!と目を覚まし、体を勢いのままに跳ね起こした。
ベッドのスプリングが派手に弾んで、飛雄馬の体はゆらゆらと震える。
「まだ寝ていたまえ。夜明けまで少しある。それに服はクリーニングに出しておいたからね」
テーブルにつき、ここに来たときと同じように三つ揃えのスーツを身に纏った花形が煙草を咥えたまま微笑むのが目に入って、飛雄馬はしまった、と肩を落とす。
花形が出てくるまで待つつもりがつい寝入ってしまったらしい。
「…………」
「疲れていたのさ。ぼくに会って緊張した面もあるだろう。もう少し眠るといい。ぼくはそろそろここを発つ」
「寝ていかないのか」
「明子が寝ずに待っていてくれるからね。名残惜しいがこれまでだ」
「し、しかし」
「……次会ったときはそれ相応の礼をしてもらおうかな」
「…………」
花形は呆ける飛雄馬を見つめ、再びクスッと笑みを浮かべるとそのままベッドまで歩み寄るが早いか、その端に腰を下ろした。
えっ?と目を見開き、動向を見守る飛雄馬の顔を真っ直ぐ見据えたまま、花形はベッドに乗り上げるような形を取り、彼の顎先に指をかけると何のためらいもなくその唇に己のそれを押し当てた。
間髪入れず口の中に舌が滑り込んできて、飛雄馬は身震いすると肌がぞくっと粟立つのを感じる。
舌が離れたと思った矢先に、ちゅうっ、と唇を吸われ、うっ!と短く呻いたところに再び唇が押し付けられる。
と、飛雄馬が切りに行くのが億劫で伸ばしっぱなしになっている髪に花形は指を絡めて、その唇の端を軽く啄んだ。
これで終わりかと思った瞬間、またしても口付けを与えられて、飛雄馬は小さく吐息混じりに喘ぎを漏らすと体を戦慄かせた。
「フフッ、これ以上はよくない。ぼくの収まりがつかなくなってしまう。それでは飛雄馬くん。また会おう」
「……う、ぅっ」
ちゅっ、と飛雄馬の下唇に吸い付いて、花形は煙草の煙を一口肺に入れてから、それを灰皿に押し付けると部屋の外へ出た。
扉がひとりでに閉まる音と、次第に遠ざかっていく花形の靴音を聞きながら飛雄馬は花形の熱の残る唇を拭う。
何を考えているのか、あの男は。
おれに恩を売って、どうしようというのか。
いや、そんなことを考えてしまうこと自体、すでに彼の掌の上で踊らされていることになるのではないか。
もしやあの店の店主と組み、おれを担いだのでは。 まさか、そんなことが。
「…………」
考えすぎだな。
それではあまりに出来すぎている。
花形はおれのことを物事をすぐ小難しく考える癖があると評していたか。
飛雄馬はベッドの上にそのままどっと背中から倒れ込み、高い天井を仰ぎ見る。
ああ、それにしても眠くてたまらない。
この光景、この状況はすべて夢で、おれの体は未だあの定食屋で眠っているんじゃないだろうか。
ふふ、と飛雄馬は思わず吹き出しはしたものの、目を閉じるとそのまま意識をゆるやかに手放した。