「どこへ行く」
私服姿で本日、大洋戦を終えたばかりの中日ドラゴンズ選手控え室の扉を開け、そこから1歩外へ足を踏み出した伴宙太を低く、冷たい声が咎めた。
文字通り、その場に縫い留められたがごとく、伴の足は歩みを止める。
「ほ、星コーチ…………!」
たらり、と伴の額に浮いた汗がそのこめかみを伝い、頬を滴り落ちた。
蛇に睨まれた蛙と言うのは、こう言った心境に陥るのだろうか。
背後を振り返らずとも、己を呼び止めた男の正体は明白で。
伴は手にしているユニフォームやタオルを入れた鞄のを持ち手の紐をぎゅうっ、と握り締める。
「他の選手は皆帰っとるじゃろうて。お前ひとり、なぜここにいる。どこに行くつもりじゃ」
「あ、う、う…………」
伴の口の中はカラカラに乾き、思うように声にならない。
「星、飛雄馬のところか」
「う、ぐっ」
いつの間に近くに来ていたのか、星コーチと呼ばれた男──星一徹は眉ひとつ動かせない伴の背後に立ち、そう、尋ねた。
「…………移籍早々、門限破りとは大した肝の座りようじゃ」
「ほ、ほっといてくださらんかのう。いくらコーチとは言え、人のプライベートにまで口を挟まんでいただきたい」
「別に、伴宙太個人がどこに行こうとわしの干渉するところではないが──中日ドラゴンズの伴宙太が、門限を破ると言うのは容認できんな。ただでさえ中日の選手らと相入れようとせんお前が、規律を乱せば余計反感を買うことになるじゃろうて」
「罰は、帰ってからいくらでも受けますわい。そんなことより、おれは」
「そんなに星飛雄馬が大事か」
一徹の地を這うような低い声に、ゾッ、と伴の背筋が凍る。
「だっ、大事ですわい。花形に打たれた星を慰め、あ、いや、奮起させてやるつもりで、おれは……今、タクシーに乗れば朝方には間に合います」
「いい加減にせい。今まで恋人気分でおるつもりじゃ。もうお前はジャイアンツの万年補欠の伴宙太ではないのじゃぞ」
「こ、恋人っ!?」
あからさまに頬を染め、伴はそこで初めて、自分の後ろに立つ一徹を振り返った。
「わしが何も知らんとでも思っておったのか。相変わらずめでたい頭をしとる。その様子だと既にやつと肌を合わせたこともあるのじゃろうて」
にやり、と笑みを浮かべ、言葉を紡ぐ一徹の姿は中日ドラゴンズのユニフォームの上にグラウンドジャケットを羽織った出で立ちのままであった。
「誰が、そんな真似……おれは」
「嘘をつけ。飛雄馬の変わりようを見ればそんなことは一目瞭然じゃ。伊達にあやつの親をやってはおらん」
「馬鹿なっ!おれと星はそんな関係じゃないですわい!」
ほとんど吐き捨てるように叫び、伴は一徹の方に体を向けると彼を睨みつけ、拳を握る。
「その熱くなりようは疑うべくもなく図星じゃろう。事を大きくしたくなければ落ち着け、伴。なんの騒ぎだと野次馬が集まるぞ」
「それは、っ!親父さんが、コーチが、妙なことを口走るからじゃあ!」
「…………伴も男ならばそう、女々しいことをするな。あやつもそう弱い男ではない。それで立ち直れぬならそれまで、いつまでも甘えておってどうする」
「散々、星を利用した親父さんがそれを口にするのか!あんたはそれでいいじゃろう!一度だって、星の気持ちを……!あんたに認めてほしいと思っていた星の思いに答えてやったことが、あるんですかい!」
怒鳴る伴の、怒りで真っ赤に染まった顔を大粒の涙が伝う。
星は、高校の時分から口を開けば父を案じ、姉を思い、いつだって自分を押し殺してきていた。
そんな星が、おれにだけ我儘を言い、特訓に付き合えと言ってくれることがたまらなく嬉しかった。
別に、星の1番になりたかったわけじゃない。
巨人の星を目指す星を、父に認められたい、褒めてほしいとそんな願いを胸に抱く小さな体を、そばでずっと見守っていたいと思っていただけで。
それが、自分で選んだ道とは言え、こんな結果になるなんて。
「……ずいぶん、思い入れがあるようじゃのう。やはり枕を共にすると情が移るか。難儀なものじゃのう。そんなに具合が良かったか」
「…………っ!」
思わず一徹に掴みかかろうとして、伴はすんでのところで思い留まる。
「行ってどうする。ひとり寝の寂しさに喘ぐ女々しい女房役に何ができる」
「おれはおれなりの方法で星を元気づけるつもりじゃい!親父さんがどうこう言う話ではない!」
「ほう。おれなりの方法で、か。ふふ………」
人をおちょくるのもいい加減に──伴がそう、言いかけた言葉の上にかぶせるように、一徹は、飛雄馬は上手かっただろう──と、そんな台詞を口にする。
「は…………?」
呆気にとられた伴の耳は、その鼓膜は、脳は続けざまに一徹が発した言葉を理解することはおろか、それを聞き入れることさえも拒絶した。
さあっ、と全身を流れる血液が一瞬にして冷え、伴は呼吸することさえも忘れる。
何を、星の親父さんは、今、口走った?
伴の脳裏を、飛雄馬と出会ったときの光景や、共に出向いた飲食店の思い出、血を吐き、泥と汗にまみれながら行った大リーグボールの特訓、はたまた、自分の下で喘ぐ彼の顔が走馬灯のように駆け巡る。
「お前が大リーグボール2号を打たれた飛雄馬の元に駆けつけようとするのも既に読めておったわ。何もかも、全部」
「ほ、星コーチ…………あんたと、言う人は……人の心が、っ」
「……………」
「星が、どんな気持ちでっ……!」
親父さんのことを語る星は、いつも嬉しそうで、それでいてどこか寂しそうでもあって──。
おれのことを初めてできた親友だと言ってくれて、こんなに幸せなのは初めてかも知れん、と、おれの腕の中で、そう笑ってくれた。
「油を売っとらんで早く行くがいい。監督たちはうまくごまかしておく」
「ぐ、う、うっ!」
唇を噛み締め、伴は強く拳を握る。
ここで、親父さんを、星コーチを殴って何になる。
星はそれで、喜ぶだろうか。
おれを軽蔑するだろうか。
そこまで考えてから、伴は首を横に振ると、一徹には目もくれず、力強く、歩き始めた。

「…………意気地なしめが」
一徹は腕を組んだまま、次第に遠ざかる背中に短く吐き捨てる。
あの後、1発、横っ面でも張ってくれようものなら、わしは完全に、鬼になれたと言うのに────。
それだからきさまは甘ちゃんだと言うのだ。
フン、と一徹は鼻を鳴らすと、ふいに夜空を見上げ、一際明るく大きく輝く星を見つけると、息子の名を、ぽつりと口にした。